ゆくえふめいの狂気をさがして
「この道をずっとまっすぐ行くと」
――道なんてスマホで調べればいいのに。
男は釈然としないまま説明する。郵便局を過ぎた交差点を左に曲がり、コンビニの手前を右に折れれば目の前が駅だった。バスも通っている。車や人の流れに従って歩いてれば、そのうち自ずと到着する。あらゆる道が、駅に通じていた。
「ごめんなさい。引っ越してきたばかりで。この土地に不慣れなんです」
「ええ、わかりますよ。僕も最初は迷いましたから」
「そうなんですね。では、別の場所から」
「はい。東京から」
「近いですね。私は、ずっと遠い場所から。義理の息子と」
男はなにも尋ねなかった。女もそれ以上なにか話そうとはしなかった。女の後ろ姿を見送ると、自分がなんのために家を出たのか忘れてしまったことに気がついた。郵便局、コンビニ。それはただの駅までの目印だ。目的などあったのだろうか。ふと、少し歩こうと思っただけかもしれない。家での仕事に疲れた。散歩で気を紛らわせる、ただそれだけのことだろう。
「ごめんなさい。安定期に入るまでちょっとだけお休みいただきます」
女のお腹が次第に大きくなっていく様子を間近で見るのは初めての経験だった。それも、自分が好意をよせる相手の腹。会ったこともない、見たこともない男の子供を宿した女の腹だ。
指輪を見るたびにこみあげた嘔吐感は消えた。嫉妬とは違う、触覚を失った虫のような不安定な感覚が、男のうちに生じ始めているのを感じた。笑い。一言で言い表すならば、それに近かった。感情とも表情とも言えないそれは、腹の底で、じりじりと育っていった。
「なにヘラヘラしてるんだ」
「エヘヘ。僕、ヘラヘラなんてしてましたか?」
「ほら、今だってしてるだろ」
「最近なにか良いことあったんですか?」
「そうだ。お前ちょっと変だぞ」
「エヘヘ。そんなことないと思うんですけどね。僕、いつもこんなですよ」
「いや、おかしいぞ。私生活で良いことがあったのかもしれないが、仕事では気を引き締めてくれないと」
「エヘヘへへ。すんません」
「ほら、それだよ」
「へへ。すんません」
「ああ、もういい」
「アハハハ。おかしい」
最期に女が笑った。腹の底をくすぐられたようだった。
「もうそろそろ生まれるんですかねー」
「十月十日。そろそろでしょうかね」
女性社員たちは、あたかも自分か家族が子供をもうけるかのように色めき立っていた。プリンターから出てきた資料を確認し、その紙に、嫉妬と憧憬が綯い交ぜになったやわらかな熱を感じた。男のうちで育つ奇妙な感覚とは違う、彼女たちのうちがわでもなにかが育ち続けているのだろう。
安定期。とスマホで調べた。
五か月程。職場に復帰してからもうすぐ四か月。また休みを取るという。生まれる。生まれる。笑いが大きく育ち、腹を破ろうとしている。巣食っている、大きく育っていくそれは、どうやら男を食い尽くしてはくれない。
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