うれしいなってわらったあさ

 朝起きていつも感じることは同じだった。隣に男がいてもそれは変わらない。自分はただの箱。

 建築は箱だという。そのなかに人がごちゃごちゃと動き回る。自分だってそうだ。人が自分のなかで動き回って、あがいて、もがいて、ついには絶頂へと至るための便利な箱。

 使われている間だけは、道具として価値があることを自覚できる。使われていないあいだは、夜のからっぽのオフィスのように寂しい。


 空虚。空虚。空虚。


 女は陰鬱な考えにとらわれたまま、長いあいだ抜け出せずにいた。なぜ、いつから。そう問うても、はじまりは見つからないし、見つけたところで過去は変えられない。

 人は、未来を見て生きるしかないのに、背を向けて後ろ向きで歩くから、誰もが簡単に転ぶ。

 隣の男の顔を見ることすらせず、ベッドから這い出して湯を沸かした。


「電気ポット、買おうか」

「ええ」


 おざなりに返事をした。

 男がカーテンを開けた。冬の低い日が部屋に射し、まぶしいほどの太陽の光が一瞬にして夜を飲みこんだ。もう少し、余韻を味わいたかったのに。



「バレンタインだし」

「まじかー。ごめん。私、なにも用意してなかったよ」


 少女は無邪気に笑った。小さな赤い包みを受けとった少女も同じように笑った。朝の太陽が昇降口にさし、うす汚れた上履きを照らす。空気をただよう塵がよく見えた。とがった風が吹きこむ。寒いね、といって少女は少女の腕をつかんで、ふたりで嬌声をあげながら階段を駆けのぼった。


 誰かのためのなにか。

 電気ポットは湯をわかすために存在している。プライパンは焼くためにある。箸はつかむためにある。ベッドは眠るため、カーテンは光をさえぎるため、くずかごはゴミを捨てるため。

 だけがただの箱なのではない。物に感じる愛着は、それが人の感覚に近づいたせいではない。女が物に近づいたのだ。


「俺も、コーヒーで」

「ええ」


 出しかけたティーバッグをしまい、インスタントコーヒーの瓶に手を伸ばした。カップをサイドテーブルに置き、ベッドのふちに腰掛けた。

 男が腹のあたりに手を回してきたので、左手でそれを上から撫でてやった。

 カーテンの外ではまた新しい一日が始まろうとしている。

 男の手を優しく解くと、自分のカップもサイドテーブルに置き、ベッドのうえに乗った。


 ――道具。道具。道具。それでも、温もりを感じないわけではないって知ってた?


 それが、誰に対する問いなのかはわからなかった。


 ベッドから窓のしたを見た。昨日いた猫が今日もいる。決まった道を決まった時間に歩くのだろうか。

 再び男の腕がまとわりつくように腰に伸びてきた。

 部屋のほこりが星のように輝いている。


 少女が少女の腕をつかむ、その温もりが蘇る。


 男の手を、激しく振り解いた。


 ――違う、同じわけがないんだ。

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