いつだってそこについていれば
――ライトだ。
舞台の中央に立って照明を浴びた瞬間に得られる高揚感ではまだ足りない。演技に集中しながらも、心はどこか遠くにある。劇場への電車で見た、哀れな蜘蛛がぼんやりと思い出される。車内の床を、動かなくなった長い脚を引きずりながら歩いていた。ぐるぐると、同じ場所で煩悶するかのように這いつくばっていた。車内が混み始めると、蜘蛛は見えなくなった。誰かがつぶしてしまったはずだ。蜘蛛に気がついていたのは男だけだった。
左の照明が眩しい、目のまえの女は誰だろう。男は天賦の才といえるほど、舞台のうえで映えた。ささやくように発する声はぴんと伸びて最奥の席へ届き、長い睫毛から落ちる影はエキゾチックな憂いを感じさせる。役になるのではなく、役である。それを自然と体現している。
男はそれほどまでに完璧で、空虚な容れ物だった。
「私は、私は誰だ!」
男には、それは何の意味もないセリフに思えた。体温と同じ温度の、グラスのなかのぬるい水を飲むみたいな無感覚が、ぽろぽろ口からこぼれていった。あらゆる言葉や文化、もしくは人そのものが、男を通過していく。意味など、はじめからなかった。
自分の口から発せられたはずの言葉は、ひらひらと蝶のように舞い、暗い観客席のあいまを飛び交っていた。
誰のもとへも届かない。言葉だってただの容器にすぎず、その中を満たすのは、受けとった者の願いなのだ。
そして、これは自分の考えではなく、演じる役の考えだった。
――だがまだ足りない。
これがラスト。一点ビハインド。イコライザーでヒーローになるはずだった。チームメイトにペットボトルを手渡した時の表情が、男はいつまでも忘れられない。
――どうして泣いているんだ。まだ試合は終わってないじゃないか。諦めてるのか?
「おい。追いつくぞ」
「おう。当たり前だ」
ヘディングで叩きつけたボールはディフェンスの足元をすり抜け、高く跳ね返って、キーパーの手をもすり抜け、クロスバーに当たる。
カンと高い音が鳴った。
ふわりと浮き上がったボールは、キーパーの手にすっぽりとおさまった。サイドキックで低く、速いボールがディフェンスラインの裏へと蹴り込まれた。このまま試合終了でも良かったはずだ。ロングボールに相手のフォワードが抜け目なく反応し、二点目を奪った。
終わった。勝利と敗北。あの感覚は、もう味わうことができない。光が一点に集まり、からだの芯から湧きあがる熱。ゴールを決めれば自然と叫んでいた。負ければ、涙があふれだした。もっとも単純な原理だけがその場を支配して、余計なことを考える余地など少しもなかった。ただ、喜びと悲しみだけが、男を満たすことができたはずなのに。
いっそ、誰かがひとおもいに終わらせてやればいいのに。
扉が開くたびに、蜘蛛の軽いからだは風に吹かれて飛んだ。どこを目指すでもなく床を這っている。
行きつく先などないにもかかわらず、這っている。
終わりは、必ず決まっているというのに。
「すごく良かったですよ」
「ああ、ありがとうございます」
――ライトが消えた。
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