望むもの
「これも一緒に捨ててもいいですか?」
「ああ、はい。どうぞ」
男は手にしていた塵取りの口を少女に向けた。少女は紙くずを放った。
「ありがとうございまーす」
「いえ、どういたしまして」
少女はなにか未練があるかのように、投げ入れた紙くずをちらと見てから、気持ちを断ち切り、背を向けた。渡り廊下を吹き抜ける風に長い髪がなびき、甘いにおいがふわっとひろがった。
――煙草?
中庭の少女たちと三階の少年。男は毎日のように同じ光景を目にしていた。そこに日々、小さな変化が生じ始めていることもわかる。
あの窓から落ちてきたであろう一本の煙草も、その小さな変化のひとつ。銀杏が葉をほとんど落としたことも変化のひとつ。
あらゆるものが光の速度に近づいていくのに、自分だけが置いてけぼり。昨日も今日も明日も、変化に取り残されていく。永遠に取り残された自分だけが、もしかしたら未来への最短の道をたどっているのかもしれない、と妙な考えが浮かぶが、それもすぐに変化のなかへと飲み込まれて消えた。
――先生たちも同じ気持ちなんだろうな。
「鴎外は『高瀬舟』でなにを問うたのでしょう」
先生の言葉は、生徒に問いかけるというより、自信に問いかけるかのようだった。
延命治療を妻は望まなかった。僕は望んでいた。一日でも、一秒でも長く共にいたいと望んだが、苦しむ彼女の姿を見ているのも耐え難かった。僕は、どうすべきだっただろう。僕は、どうすべきだっただろう。
先生は、鴎外が問うた課題に、自らの人生でもって応じなければならなかった。苦痛に顔を歪めてはいたものの、涙はとうに乾いてしまったのだろう、小説の語りかける言葉にどれほどの真実が含まれているのか。身をもって教えようとしたのだろうか。
――いや、違う。
男は妻のことを思った。
ああ、新聞、どこにやったっけ。ほら、いつものところでしょう。ああ、いつものところってどこだ。ほら、ここ。ああ、わるいわるい。
思い出されるのは、昨日も今日も明日も変わらないはずだった日常ばかりで、肝心なことはなにも浮かんでこない。
問いは、先生だけのものじゃない。
煙草を拾い、三階の窓を見上げた。一瞬だけ少年の影が見えたが、隠れてしまった。塵取りの口を開け、中に捨てた。
「あの、やっぱり」
先ほどの髪の長い少女だ。去ったばかりで、すぐに戻ってきた。視線を落とし、塵取りをじっと見つめている。やり直せることと、やり直せないこととがあるのだ。そんな単純なことを、男は思い知らされた。
「はい。どうかしましたか」
「さっきの、やっぱり拾ってもいいですか?」
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