振り向いてみたらかならず

「傷ついたから」


 ほほをつたう液体の意味を考えてみると、そんな言葉が少女の口を突いて出た。青空に浮かぶ雲を見上げて、横の友人の顔を見た。


「で、誰が?」と平然とした表情で問う。


 少女は考えてみるものの、誰が傷ついたのかはわからない。羊よりももっと柔らかい、美術館の彫像みたいな大きさの、白くてふわふわした獣。白い雲はあまりに大きくて、つかみようがなかった。



 小さい頃に近所にいたグレートピレニーズは、少女が小学六年生の夏に死んだ。ソフィアという名前の白くて大きな犬。犬臭かった。臭いが近所で問題になった。死ぬ間際に、ぐっと臭いが増し、前の道を通る人は誰もが顔を顰めた。両親には噛まれるかもしれないから近づかないようにと言われたが、それ以上にソフィアの家と関わることを嫌っていたのだ。

 結局、ソフィアはひとりで死んだ。



「わからない。じゃあ風が冷たかったからかな」


 校舎に囲まれているはずの中庭にどこから風が来るのだろう。


「乾いた冬の風が涙の意味だとして、その風になにか意味はあるのかな」

「ないよ。そんなの」


 また、冬の乾いた風が吹き抜けた。少女が風上を見やると、体育の先生と目が合った。いつもなにか言いたげな顔でこちらを見ていた。先生なのに、言葉にするのがうまくない。からだを動かしているあいだだけは雄弁だった。からだが語る。つまさき、ゆびさき、膝、足首、股関節、肘、肩、肩甲骨、首。おしゃべりが過ぎるくらいに。

 体育の授業は好きじゃなくとも、生徒と一緒になって雄弁に動き回る彼女の姿に耳を傾けているのは、少しも退屈しなかった。彼女の肉体の語るストーリーは、そんじょそこらのドラマや漫画の比ではないのだ。


「欲も傷も、たどればみーんなからっぽさ」

「そんなもんかな?」

「そんなもん。……んや、わかんないけどね」

「だよね」

「ね。知らんもん」



 ソフィアの最期を看取ることはできなかった。死んでからしばらくは、ソフィアの臭いが近所にただよっていたのに、それもいつのまにか消えた。住人は去り、しばらくたってから家が潰され、更地になり、すぐに新しい家が建てられた。ソフィアのことを覚えているのは、誰もいなかくなった。



「テスト勉もう始めてる?」

「うん、始めてるよ」

「さすが学年六位」

「今回の世界史は範囲が広いから。試験範囲発表される前にやらなきゃ絶対に間に合わないもの。そのくらいあなただってわかってるでしょ」

「間に合わない時って、どうやっても間に合わないんだからいいんだよ」

「そんなもんかな?」

「そんなもん……んや、わかんないけどね」

「だよね」

「ね。知らんもん」


 大きな雲が校舎の陰に隠れた。見上げた校舎の三階から中庭を見下ろす男子生徒がこちらを見ている。同じクラスの生徒。目的は隣の髪の長い友達。学年一の美少女だから、ああして遠くから眺めるしかないのだろう。高嶺の花を上から見下ろす彼らはいったい、今どこにいるのだろう。

 憧れは、憧れのまま眺めるぐらいがちょうどいい。少女は、消えてしまった白く大きな雲のことはもう忘れていた。また頬を涙がつたった。


「目が乾燥しやすいんだね。あるいはスマホの見すぎかも」


 ううん、と首を振った。


「だって、傷つけたから」

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