ふたりだけのはなし

〈許してあげたんだ?〉


 ――違う、許してなんかいない。


 他に手段を知らないだけだった。

 妻が居間にスマホを置き忘れて家を出た。男は慌ててそれを手に取り、妻を追いかけた。エレベーターには間に合わず、待つより階段を使ったほうが早いと思い、四階から駆け下りた。

 ぶるっと手元が震えた。覗き見する気などなかったが、自然と腕があがり、画面の通知を確認していた。所詮、反射運動にすぎない。日常で繰り返し生じる行為の一断面は逃れようのないマンネリズムの渦となって黄昏に沈む。

 男の長い夜が始まった。


〈だけど、許さないなら離婚すればいいだけの話じゃないの〉



「違う、そうはならない。そうはならない」


 甲斐性なし。居間のテーブルに置かれたスマホを持って行く。朝晩の料理を作る。掃除をする。稼ぎは妻より少ないが、それでも週四十時間は働いている。妻が帰れば労わる。仕事の愚痴も聞く。必要とあれば肩も腰も揉む。尻に敷かれているのではない、彼女に全てを捧げてしまった。今さら戻るわけにはいかないのだ。


 上司と部下。完成させた新しい企画の資料。速さ、質、完成度、すべてにおいて男の能力は卓抜していた。強いていうなら、使い方を知らないという点において男は無能だった。妻となる前に、女は男の扱いを完璧に心得ていた。緩急、強弱、高低、テンポ、ピアノでも弾くかのように男を奏でた。

 男は女なしで綺麗な音を出せない。女は男なしで自然と音を生み出せる。優位性は明確だった。


「そしたら、僕の生きる意味ってなんだ?」


〈そしたらって、そうじゃなくったって生きる意味なんてそうそうねえべ〉


 ――あれ?



 剃刀で傷つけたほほのかさぶたが剥がれ落ちた。したからピンク色のつるりとした肌があらわれた。つやつやち光る肌は、まるで人工物のような無機質な表面を湛えているかのようだった。男はそれが自分の肌だという感覚がなかった。痛みはもうなかった。


〈だからさ、お前は生きてる意味なんてないんだ。それで別に良いべ〉


 生きる意味などない、といわれて感じたのは、安心感だった。誰かのための自分であることこそが意味だと思っていた男にとって、無意味である自分は新鮮だった。なになにのため。なになにのため。なになにのため。

 元々はチョコレートのような濃い茶色だった。今では色褪せ、ほとんどクリーム色と言ってもいい。そのぬいぐるみだけは、妻にも内緒で持ち続けている。男が愛着を感じることのできる、唯一の優しさだ。


 ベランダからしたを見た。四階では高さが足りない気がした。もし五階に住んでいたら、なにか違っていただろうかと男は思う。ほんの小さなきっかけや違いだけでも、男の人生を左右していたに違いない。運が良かった。あるいは悪かったのだろうか。もっと悪い人生だって、想像に難くない。その反対もまた同じ。だとしたら、やはり今のようなあり方しかなかったような気がしてくる。

 鍵と鍵穴の形は合うのに、回らない。そんな日々が続いていた。


 母が電話越しに泣いていたことを思い出す。男は母に、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、と何度も繰り返した。


「もう、許してあげれば?」

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