あめはやさしい
傘を差さなかった。それほど降っていないと思ったから差さなかったのに、帰る頃にはすっかり濡れ鼠で、玄関で手渡されたタオルで頭を拭くと、もうシャワーを浴びたかのような気分になった。柔らかいタオルの感触と、洗剤の匂いがそうさせたのだ。
「ほら、早くお風呂に入っちゃいなさいよ。いつまでもそんな格好で玄関に立ってないで。風邪引くわよ」
どこかよそよそしい優しさが、お腹の底をもぞもぞとさせ、くすぐったいと思う。少年はまだ、慣れていなかった。
「はい」
冷淡に返事をしたつもりはないが、耳に響く自分の素っ気ない声にどきりとした。胸のなかでなにかがきゅっと縮こまって、心臓に鳥肌が立つ。
冷蔵庫から麦茶を出し、グラスに注いだ。透明な液体を蛍光灯に透かすと綺麗だと気付いたのは、小学生にもならない頃だった。光の差し具合や麦茶の濃淡によって色が変わるだけではなく、背景の色味や、その時の気分によって左右された。
「お前、ホント麦茶が好きだな」
「うん!」
母に言われるままに少年は受け入れた。本当は麦茶が好きなわけではなく、家の冷蔵庫には麦茶しかなかったというだけの話だった。少年が眠ってから帰宅し、起きる頃には朝ごはんだけが用意されていた。家は静かだった。誰もいない家での生活に慣れている少年にとっては、人と暮らす方が不自然な気がした。
「ほら、麦茶はお風呂のあとでも飲めるでしょ。早くお風呂に入っちゃいなさい」
母よりも十、もしくは二十は年上だと思っていた彼女は、実際には四つしか違わないと知った。飲み途中の麦茶をむりやり取ろうとしたその手から、ハンドクリームの甘い匂いがした。指の節々に深いしわが刻まれている。血は出ていないが、赤く腫れている。痛々しい指先だった。
「友達、外で待ってるから」
少年は一気に麦茶を飲み干すと、なにか言われる前に、さっさと家を出た。行くあてなどどこにもなかった。また傘を差さなかった。
あっというまに土砂降りに変わって、一瞬にして濡れ鼠になった。駅の近くの公園には、プラスチック製のオレンジ色したトンネルがある。雨宿りをするにはうってつけだが、雨の中をびしょ濡れで歩いて行くには、少し遠い。
商店街の入り口に差し掛かったところで、少年は立ち止まり、どんよりと垂れる鈍色の空を見上げた。篠突く雨に不思議と少年の心は色めき立つ。雨だ。雨はどこでも降るのだ。自分以外の人の上にも。
そしていつか晴れる。
「おい、お前」
そう呼ばれるのは久しぶりで懐かしくて、少年は思わず振り返った。こめかみに傷のある中年男が傘を持って立っていた。
「これ、使えよ」
粗野な男はグイッと傘を差し出した。少年も似たもの同士で、ぞんざいに傘を奪い取ると、礼も言わずに駆け出した。
受け取った傘も差さずに商店街を駆け抜け、水嵩の増した川を覗き見ながら橋を渡り、歩道を遮る大きな水たまりにぶつかった。一足で跳び越えるには少し大きいように見えた。躊躇いがなかったわけではない。だが、できないとは思わなかった。
駆けた勢いのまま、ぴょんと跳ねた。雨が顔全体にぱちぱち当たって弾けるのが心地よかった。半ば目をつむり、着地した。わずかにかかとが水溜りに落ちた。それでも靴下が濡れただけだ。跳べたのだ。
少年の興奮は抑えようがなく、いつだって跳べる、いつだって跳べる、いつだって僕は跳べるんだ、と川に向かって大声で叫んだ。
公園にたどり着くと、トンネルには先客がいた。同い年くらいの少女で、同じく濡れ鼠だった。
小さい肩を小刻みに震わせ、トンネルのオレンジ色の暗闇から、潤んだ三白眼でねめつける少女は氷でできた猫の彫像みたいだと思った。少年は傘の先端を持って、持ち手を奥へと差し入れた。
「これ、やるよ。だから、ここは俺に使わせろよ」
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