とおくの雨、だれかの夢、きのうの罪

「角が丸すぎるよ」

「そうかな?」


 男に手渡した銀色の道具は、なにに使うのかわからない。スコップのようにも見えたし、果物ナイフのようにも見えたし、すこし大きな匙にも見えた。複数の道具の境界線をまたいで、横柄に腰掛けている。女はそれをよく研いだつもりだった。

 男は満足しない。男は器用に持ち手をくるりと半回転させ、刃の根元を人差し指と親指でつまみ、女に差し出した。女は黙ってそれを受けとると、椅子に座り、また丹念にそれを研ぎ始めた。


 ――どうしてこうなったのだろう?


 発端は、先週末の少し飲み過ぎた夜のことだった。

 名も知らぬ、顔も知らぬ少女が落ちていった。藍色の空に。女はそれを追うヒバリだった。彼女が眠ったまま空に落ちていくのを、鳥たちはそのまま見過ごすわけにはいかないと思い、追ったのだ。空へ、もっと高く、もっと高くと落ちていく少女。天地が逆転している。彼女は翼もないのに、高く、高く、高くと求め、落ち続ける。それが恋なのだから、仕方ないでしょう。と、ヒバリになった女が歌うのをやめた瞬間に、ようやく目が覚めた。

 そうして連日、女は夢を見た。違和感があった。この夢は自分のものではなく、どこかほかの誰かが見ている夢に、脇役として紛れ込んでしまっているのだ、女はそう確信していた。見たこともない男が、見たこともない銀色の道具を、なぜ自分に研がせるのか。自分の夢にしては、どうにもこうにも辻褄が合わない。いや、夢というのは辻褄が合わなくて当然だろうけど、それにしても不自然なことが多かった。そもそも、なぜそれほどまでに意識が明晰なのか。女は訝しんでいた。


「そんなのあり得ます? 他人の夢なんておかしいですよ。夢って記憶でできてるんでしょう。だったら知らないって思ってても、無意識にどっかで見てるかもしれないし。だって、見てないことって証明するのってほとんど不可能だし。そう考えたら、不自然かつ不確かなのは、現実のなかでの先輩の記憶とか、意識なんじゃないですかね?」


 一後輩の言うことはもっともだった。説得力に欠けるのは自分だとは思いつつも、女はなんとなく腑に落ちず、曖昧に頷いた。


「……先輩って、夢見がちな人だったんですね。意外です」


 後輩の言葉の意味がわかるまで、女は随分と時間がかかった。

 女は、自分が職場でなんとなく浮いていることに気づいていたものの、現実主義で冷酷な鉄面皮、能面、ミスロボット、サイコパス、などとあだ名されているとは知らなかった。しのつく雨のように屋根を激しくうっては、雑音のように流れ、軒先に泥濘をつくる言葉の数々に打たれ、心身が冷え切って呼吸もできなくなりそうで、心臓の音も、雨の音も、自分が犯した罪の罰をも、一緒に空に、雲の向こうに持ち去ってくれれば良いのにと願う。そして女は、あれはやっぱり自分の夢だったのだと気づくのだった。


「これでどうでしょうか」

「いくらか鋭くなったかな」


 永遠に夢が続けばいい。一歩外に、現実世界に出てしまったら、その瞬間から泥濘に足をとられるしか他にしかたがない。

 雨はまだ降り続けていた。

 男はその不思議な銀色の道具を女の首筋に当て、スッと軽く引いた。血はでなかった。


「もう少し、研ぐ必要があるね」と男がいった。

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