夜に堕ちる

「ケガしてませんか?」


 冗談のつもりで青年が口にした言葉。言葉はそれだけで力を持つことを、まだ知らなかった。未熟だった。幼稚だった。少女の表情の変化、些細な機微、そういうものを感じ取れるだけの鋭敏さは持ち合わせていない。それどころかむしろ愚鈍という形容が似合う類の青年だった。瑕疵なき容姿がなお悪い。見目麗しさゆえ、愚鈍が影を潜めてしまう。だが、貧相な形では、浅はかだろうとそんな言葉は口にしなかった。

 軽薄な男は、英語の授業で習った口説き文句を、さっそく日本語で試してみたくなったのだった。

 空を覆う雲が欠け、穴があいた。散歩でもしていたのだろうか、天使は光とともに滑り落ちた。ならば怪我でもしたんじゃないかと、地上の人間は気をもむ。人間は恐れを抱きながらも、ためらいがちにそばに近寄り、手を差し伸べ、声をかけるのだ。怪我をしていませんか、と。

 少女は怪訝な表情で青年を見上げた。

 初め、その言葉の意味を解さなかったらしい。当然だ。青年は言葉を継ぎ、物語を紡ぎ、地に立つ少女を神聖な存在へと祭り上げる。少女がその物語のヒロインを演じる決意した瞬間、偽りを重ねてさらなる物語が紡がれていく。

 眉目秀麗、一点の曇りもない黒い瞳。低い声。青年は自らの武器を余すことなく用いて少女を物語の虜にしようと試みる。

 メデューサに見つめられたごとく、少女は石像のように一歩も動けない。ペルセウスはメデューサの首を切り落とし、右の血管から滴る血液を右の瓶へ、左の血管から滴る血液を左の瓶へとおさめ、アテーナ―に捧げた。右の血は人を蘇らせ、左の血は人を殺す力があるという。

 生命の根源的な喜びを昇華させる魅力とともに、魂を吸い尽くして滅ぼすような蠱惑的な引力がある。美は空虚を根拠に成立する。無意味という名の養分を吸って大きく膨らみ、からっぽのまま成長する。

 少女はその短い逢瀬に青年の軽薄さを感じなかったわけではない。天使の形容で人を褒めたてるなど愚の骨頂、とは思いつつも、軽薄であるからこそふわりと空に浮き上がってしまうような美しさがある。おざなりにはできなかった。とはいえ、目の前に転がり込んできた奇異な物語に適用する術も、もちろん知らない。沈黙だけが、少女がそのとき語れる唯一の言葉だった。

 青年は無反応に見える少女をまえに落胆した。英語の授業で聞き齧っただけの下らない口説き文句など、通用するはずがなかったのだ。あるいは、青年自身が自らの武器と自負している容姿にどこか欠けたところがあったのだろうか、と不安になる。

 青年が踵を返し、その場を立ち去ろうとした刹那、少女が袖をつかんだ。

 青年は振り返った。参道の左右に座す狐の像がふたりを見つめている。少女の瞳は夜闇より暗く、奥に月のような密やかな銀の光を宿している。青年は、ようやくその変化に気がついた。少女に狐が憑いたか、あるいは狐に化かされているのだろうか。

 森閑とした社の空気とは対照的に、ふたりの鼓動は高鳴る。冬の乾いた空気が、いくつもの願いとともに参道を通り抜け、滾るような熱い血が足先から頭の天辺までを一瞬にして駆け巡る。ふたりを避けるように人が行き来した。時間が過ぎ、ただ見つめ合っていた。

 幾時経過したともわからない。言葉を交わすでもない。恋という言葉で表現するにはなにか足りない。鼓動は静寂に包まれ、空は薄闇に暮れ、互いの表情すら曖昧模糊としていた。

 ふたりして惹かれた、というより憑かれた。神の成す業なのだろう、と青年は思い出すたびに考えた。

 メドューサの眼力のごとく、血力のごとく、生と死と静止とが綯い交ぜになった壁に囲まれ、ふたりきりで閉じ込められた。

 ふたりに空は見えない。ふたりに大地は見えない。血があふれ、滴り、左右の瓶に詰めこまれたシュレーディンガーの猫のごとき魂の蠢きも感じられない。

 肉体と世界との境界線を失ったぬるま湯に浸かる心地よさに溺れて、快楽に満ちた退廃を味わっている。


 ふたりして堕ちたのだ。

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