忘れていたけど
「あれ、名前知ってる?」
「ん、どれ?」
「あのぎざぎざの白い紙」
「ああ、あれね。あれはね――」
僅かに斜視があるのが玉に瑕だが、美青年といっても過言ではない。低く落ち着いた声は一層その容貌を際立たせる。服装は派手というか個性的というか、人の目を引いた。赤と黒、緑の大きな幅のチェック柄のセーターに、細い赤のストライプの入ったパンツ、裾からは緑と黒のボーダーの靴下が覗いている。シューズはエナメル。柄、柄、柄、艶、という強烈な印象のリズムに統一感を持たせるのは、彼のセンスがなす妙味だろう。あるいは、彼の美しさが混沌を抑制しているのか。他の人では、こうはならなかったかもしれない。
「シデって言うんだよ。紙が垂れるって書いてさ」
「ふーん。そういうのよく知ってるよね。誰に教えてもらうの?」
――あれ、誰だっけ。
社のうえの空を仰いだ。昨夜の雨が嘘のように晴れわたり、高い天がかすかに白く霞んでいた。春が近いのだろうか、ときどきあたたかい風が吹いて、不意に心をときめかせる。
「お父さん、あれなに?」
「あれは紙垂って言ってな、注連縄から垂らしているのはここが神聖な場所だってあらわしてるんだな。ほら、お相撲さんのまわしにもついてたりするだろ。相撲は神事だからな」
「ふーん。シンセイな場所かあ。お相撲さんかあ。なるほどねえ」
賽銭は奮発して五百円ずつ、合計千円。少女は、投げたふりしてポケットにしまおうかと迷ったが、父が躊躇わずに賽銭箱に投げたのを見て、諦めたようにその所作を真似た。五百円、少女にとっては大金だった。
「二回おじぎするんだ。こうして。そして、二回はくしゅするんだ。こうして」
パンッ、パンッ。乾いた空気に快い音が響いた。
「最後にもう一度、手を合わせながら、こうしておじぎをするんだ。お前もなにかお願い事しなさい」
父が目をつむって手を合わせ、そのまま動かなくなるのを横で見ていた。少女は今まで一度だって見たことがない表情を浮かべている。ほんの数秒のできごとだったはずが、少女は瞬間、父に捨てられたと思った。遠くにいってしまう、と。
たとえ父が少女の幸福を願っていたとしても、遠ざかっていく父は彼女を捨てたのだ。そしてもう戻らない。
「そっか、そう。お父さんだ」
「そっか」
青年は踏み込まない。安心して横にいられる。前の老夫婦が参拝を終えるのを待ち、ふたりが去ると、五百円ずつ賽銭を投げた。学生には辛かった。ちゃりん、と箱の中で鳴った。願いが叶う気がしたけれど、願うべきことを忘れてしまった。
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