空の深さ

「泣いていたんだよ」


 男の言葉はBGMのようなムードをかもすだけで、あらかじめ意味が失われている。背景に溶けて消えてしまうたぐいの言葉。それは詩だ。純粋に澄んで光を透かして、色を薄く見せる。鳥の声にも似ている。高く伸びて空になる。窓で隔てられた外界がガラスを通して近づいてくる。声が光になって容易くすり抜けてしまう。魅力的な声だ。

 そういう男が目のまえにいる事実を、女は夢見心地で味わっていた。些事に関わる必要はないと思った。


「少女が泣いていたんだよ。いや、少女というには年をとり過ぎているかもしれないけど。確かにあれは少女だった。二十代後半、あるいは三十ぐらいだろうか、それでも少女が時々顔を出す。そういう奇跡のような瞬間を、日曜日の朝に見たんだ」

「アハハハ、三十で少女はないでしょ」

「だから、厳密には年齢の問題ではないんだよ」


 ソファに座る男は前かがみにうなだれ、膝のうえで拳を固く握りしめ、そのうえに自らの額を乗せる。限界に近いくらい苦しい時、あるいは嬉しい時にする仕草だ。

 女にはそのどちらかまでは判断できない。顔をあげてカップをとり、一口すすった。とうに冷めていた。男が余韻を味わうように遠い目をした。女はそれを見て、またハハッと笑った。


「記憶の断片が、するっと日常に流れ込んでくるようなきらめく瞬間が、君にはないのかい?」


 男の声はいくらか怒気を孕んでいる。あるいは悲しみだろうか。膨らんでいく不安がふたりの空間を満たし、まるでプールの底に沈んだような冷たさが女には心地よかった。


「ないよ。あたしはいつだって今を生きてるんだから。過去が今に割り込んでくるなんてゆるさないのさ」

「その今に向かって、過去が唐突に立ち現れることがないかって聞いてるんだよ。少なくとも記憶は、自由に今に存在しているじゃないか」

「ないよ。あたしの今は今だけでできてるんだ。過去はあたしが今実感してる記憶に過ぎないし、あたしにとってそれは決して過去ではないの、今なの。今をきらめかせてくれるための記憶は常に今にしかないってことだよ」

「君にあの女の涙を見せてやりたいよ。それだけできっと君は僕の言葉の意味を理解するだろうから」

「あたしがあなたを理解することなんて絶対にない。あたしたちは、理解し合えないからこそこうして一緒にいられるのでしょう。お互い永遠の謎として。理解できないことは、あたしたちの希望なのよ」


 太陽が雲に隠れた。窓からさしていた日が弱まると、男は外を眺めやった。遠くに見える雲間から漏れる光は、男を陰鬱な気分にした。

 わかりあえないことこそ、ふたりが異なること、違っていること、それこそがふたりでいる意味であるのに、わかりあえないこと、ふたりがふたりでいること、異なること、違っていることが苦悩の源にもなる。その矛盾をすんなりと受け入れる女のまえで、男はやはり絶望的な気持ちになる。なぜなら、それすらもわかりあえていないからだった。


「アハハ、そう落ち込むこたあないでしょう。だってあたし、あなたのこと好きだよ。それですべてが解決するじゃない。互いのわかりあえなさすらも超越するからこそ、恋愛って美しんだから」


 店員はなにも聞かずにコーヒーをつぎたした。女は熱いコーヒーを啜って、男が見ている空を見た。女も男と同じように陰鬱な気分になった。一瞬だけ、ふたりの心は完全に重なった。互いにそれを知るよしはない。


 ――やっぱり、絶望的だ。

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