次の電車までの意味のない言葉のまじわり

「遠くのものが近くにみえる」

「ああ、逆遠近法みたいな感じ」

「なにそれ?」

「いや、わかんないけど。そういうものがあるとしたらさ。一番大きく見えるものが一番遠くにあって、一番小さく見えるものが本当は一番近くにあるのかもしれない。しかも、近づけば近づくほどもっとそれは小さくなる、みたいなさ」

「神経を研ぎ澄ませば研ぎ澄ますほど、無感覚になっていくのと同じこと? 集中するとあらゆるものが落ちていくような気がする。そうして、集中の対象すらも見失ってしまって、空っぽになるの。そういうことなのかな」


 ふたりが座るベンチのまえを同世代の異性が通り過ぎても、視線をちらとも向けやしなかった。

 異性に興味がないわけではない。ふたりして意味のない会話に興じるのがたまらなく好きなのだ。不毛で実りのない言葉を交わし、虚空に向かって息を吐き、白くなってさっと消える冬、その刹那こそが、ふたりにとっての最高の喜びだった。


「鋭敏な神経ってのは世界をミンチみたいに細かく切り刻んじゃうからね。連続性とか関係性を失ってしまった世界は純粋に無意味なのだと思うよ。だから数が増えているはずなのにひとつひとつは小さすぎて捉えらんない、というか、関係性を失ってそれがなにに対しても意味を有さなくなる。逆遠近法の秘密はそのあたりにあると思うんだ」

「遠くなれば細部を失って全体としてしか見えないからこそそれが大きく見える。近くなれば全体を失って細部としてしか見えないからこそそれが小さく見える。なるほど、想像できなくもない世界だね、逆遠近法と過剰なほど鋭敏な神経。僕たちの見ている世界は、見方によって見え方が簡単に変わるってことだろね」


 電車が到着した。ドアが開くと、ふたりは乗車した。昼の電車は空いていたため、同じように並んで座った。ホームを挟んで向かいの電車が発車した。動いてないのに、からだが揺れるような気がした。


「じゃあ、あの月はどうかな。僕らにとってあれは近い? それとも遠い?」

「一コンマ三秒」

「それは近いと言えるかもね。逆遠近法的に言えば小さく見える距離じゃない?」

「四十万キロが近いと言うにはもっと遠いものと比較しないと」

「八分二十秒。太陽なんてどう?」

「まだ近い。それじゃあ電車と電車の間隔ぐらいのものだよ。そのくらいだったら、声が届くまで待つこともできる」

「好きな人の声」

「え?」

「それは、好きな人の声限定の話でしょ。どうでもいいことだったら八分二十秒も待てないよ。遠すぎる。水素とかヘリウムとかの声を聞くために待つ時間としてはちょっと長い」

「ああ、そうかもね」


 電車の到着を告げるアナウンス、開いたドアからおりる乗客、立ち上がるふたり。


「好きな人、いるんだ?」


 乗り込むと同時に、片割れが言った。プルルルルルルルルルル。発車を告げる音がホームに響き、数人が車内に駆け込んできた。


「僕の記憶を辿ってみると、そういうこともあった気がする。なかった気もする。どうだろうね。過去のことはよくわからないよ」

「記憶ってそういうもんだよね」

「うん。遠くても、ずっと近くにあるから」

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