そろそろいかなくちゃ

「まだやってないのかよ」

「ん、ああ、うん」


 友人の気の抜けた返事に、青年も同じように力が抜けた。

 秋晴れだから外でご飯を食べよう、そういって四号館のまえの養生中の芝生のうえでふたり、パンを食べていた。立ち入り禁止の看板を無視しているのは彼らだけではない。生協のビニール袋を敷いたけれど、色褪せた芝生を通して地面の冷たさが感じられる。濡れていないだけましだった。


「あーあ。まあそんなんだからこそ、ああいうのと付き合えるのかもな」

「ああ、そうかもね」


 友人のいう『ああいうの』が意味するところがわからずとも、青年は微塵も気に掛けなかった。チクチクした芝の感触がビニール袋越しにでも感じる。青年はさっきからそれがずっと気になっていた。白くなった芝は、まだ生きているのだろうか。


「彼女、きっと好きな人がいるんだよなあ」

「はあ? なにそれ、浮気ってこと?」

「そういうのとは違くってさ。もっと普通に、好きな人がいるんだよ」

「だから、それを浮気っていうんじゃねえの」

「うーん。そういうんじゃないんだけどなあ……まあ、どっちでもいいや」


 自分の感じることを適当に言い得る言葉がなかった。

 青年はいつも思う。とりわけ彼女のこととなるとそうだ。告白しておきながら、好きだという確信がいまだにない。同じように彼女も、青年に対して特別な愛情を示すわけでもない。だが、関係性としてはとても心地よい。恋人である必要などなく、付き合うという体裁は単に周囲に対する方便に過ぎなかった。

 手を繋いだ。キスをした。ロマンチックな夜景を見たあと、公園のベンチでふたり座った。典型的なデートを義務のようにふたりでこなした。

 ホテルに行こうという話にはならなかった。帰ると彼女に言われるまえに、青年の方から帰ろうと言った。

 他にもいくらかカップルがいたが、皆一様に、同じ方角へと歩いていった。ふたりとは反対方向。まだそういうのは求めていない。いつか、ただ互いの暇を埋めるために、体を重ねるかもしれない。そのくらいがふたりにはちょうどいいのだ。あるいは一緒にいて、天気のこととか、季節のこととか、朝ご飯のこととか話すだけでも、悪くはない。


「好きだったら、やりたいって思うのも自然なことじゃねえの?」

「その自然なところにたどりつくのに、自然である必要はないでしょ? 誰もが同じ道筋を辿って同じ場所に行き着くなんて、そんな不自然なことはないんだから」




 少年は、学校の門の前で立つ数人の少女に話しかけられた。そのうちひとりは少年の初恋の人。


「ねえ、十四日って、練習とかあるの?」

「なんで僕に訊くの?」

「だって、サッカー部でしょ。練習があるのか、知りたいの」


 十四日の練習の日、結局なにも起こらなかった。

 少年の恋愛はあの日に終わった。中学高校と過ぎ、気づけば記憶を大切にしまったまま大学生になっていた。彼女も青年と同じだ。そういう確信が、ふたりを安心させるのだろうか。

 彼女には、やっぱり好きな人がいるのだ。青年と同じように。




「確かに、自然な流れを自ら作り出すのだって、不自然かもな。でも、それもひっくるめて自然だっていっても良いのかもしれないし。結局、お前がどうしたいかだろ」

「アハハ、そうかもね」


 どうしたいか、か。と青年は思う。

 一緒に電車に乗った時の彼女の浮かない表情。それがどうすれば笑顔に変えられるのか、そんなことを考えてみるのも悪くない。友人の言葉に青年は力を得た。ふたりは素直だ。

 パンを食べ終えた。青年は立ち上がった。初恋が終わり、恋愛の最も美しいところである永遠が損なわれるのを受け入れる準備ができた。実験棟の脇から太陽が顔を覗かせ、芝に光が落ちた。暖かい。


「うん、そうだよね。僕はまだ、なにもやってなかった」

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