まだそこにあるもの

「もう、通わないんだね。この学校に」

「アハハ、当たり前じゃん。もう卒業するんだよ」


 あっけらかんとした声が青空に抜けた。振り返ったグラウンドでは、野球部がノック練習をしている。三年がいなくなってもその光景は変わらない。四月になれば空白を埋めるように新しい生徒が入学するだけだ。


「なにしてんの? 早くいこうよ」

「あーうん」


 何度も歩いたはずの道で振り返った。校庭のフェンスに沿って植えられた桜。駅と学校のちょうど中間に位置するコンビニ。そこでジュースを買い、脇道にはいった住宅街の小さな公園で、暗くなるまで喋った。見慣れた景色が不思議とはじめて見るような新鮮さできらめいているような気がした。


「なに感傷に浸ってるんだか。また、いつだって会えるじゃん」

「うん、まあね」




 二年ぶりだった。

 変わった。高校の頃の控えめな化粧とはうってかわって、完璧に顔を作っている。互いの目を見て、フッと笑みが漏れた。ふたりして別人のようだった。


「うちら、もう大人だよ」

「うん、年齢だけはね」


 友人の誘いで男二人女二人のダブルデートというやつだろうか、少女は退屈に感じた。誘った友人の方も同じらしく、顔を見合わせて苦笑した。

 ごめんねという言葉は口にせずとも、互いの見せる苦笑だけで十分すぎるほど伝わった。

 変わっていない、と二人はすぐに考えをあらためた。


「……ねえ、二人で逃げちゃおっか?」

「あはは、うける。そういうのって男女でやるもんじゃない」


 トイレに寄るから先に行ってて、と二人は告げると、彼らを置き去りにしたまま坂をくだった。島の入り口でソフトクリームを買い、橋を渡った。友人は途中まで食べたアイスを傾け、富士山の方角に向け、片目をつむって白いかたまりをじっと見つめて言った。


「こうすると、まるごと食べられるよ。日本一の山を一口でさ」


 高くかかげられた日本一の山目掛けて黒い影が急降下し、友人の手を傷つけることなく、器用にアイスクリームを奪い去った。翼の内側の白い模様が一瞬だけ見えた。友人は、一富士二鷹三茄子というが、あれは鷹ではなく鳶だ。それでもいくらか縁起がいいでしょといって笑った声は、やはりあっけらかんとしていて、するりと青空に抜けた。懐かしい声。聞き慣れた声。安心する声。いつもそこにあった声。それを追いかけるように鳶が高く鳴いた。不安になって、彼女の手をつかんだ。


 各駅停車でゆっくりと帰る。

 窓のそとの光景は、別の日に別の人が描いた光景に見えるぐらいに往路とは違っていた。

 左の窓からは澄みわたった青空がのぞく、右の窓からは錆びた鉄のような不気味な色の雲が垂れる。

 同じく大学生だろう、途中の駅で若い男女が乗ってきた。少女は年齢のそう変わらない女を見て、大人だな、と思い、同時に、まだ大人にはなりたくないな、とも思う。

 もう少し、ゆっくりでいい。この時間が、長く続きますように。ゆっくり、ゆっくり。


「じゃあ、またね」


 電車が駅につくころには外はもう暗かった。

 友人は南口、少女は北口。反対の方向に歩きはじめた。

 少女は振り返った。遠ざかっていく友人の後ろ姿に、少し痩せたんじゃない、と小声で語りかけた。手にはまだ細い手の冷たい感触が残っていた。

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