うつろなあいの話
「簡単な話だよ」
ホワイトボードに単色で数式を書き連ねていく。塾生たち大半はその話を聞いていなかった。男の描く記号の数々は生物のような有機的曲線をそなえ、今にも動き出そうとしている。最前列に座る日によく焼けた少年は真剣な眼差しを男に向けるが、理解している様子はなかった。通路をはさんで隣に座る少女はいくらか理解しているようだが、やはり中学生には難しすぎるのだろう。三角関数の話まではなんとかついてきていた少女も、無限級数の話になるとついに脱落した。
男がホワイトボードから視線を外し、ふと教室を見渡すと、塾生の半分以上は眠っていた。
――ああ、また話がそれてしまった。
「意味わかんない」
天体観測サークル。ちんけだ。天文学の知識もろくにないやつらが、星のしたでロマンチックな言葉を語らうくだらない集まりだ。
男がサークルを離れようと思った頃に、女は入ってきた。奔放だった。惑うようにも見えた。遊ぶようにも見えた。男は女を、プラネットと密かに名付けた。
――プラネットは文系、ロマンチックサークルの一員か。
「わかろうとしないだけだろう?」
「なにそれ、私のこと? それとも、あんた自身のことでも言ってんの?」
惑うだけではあきたらずに人をも惑わすプラネット。はて、と男は思う。この感情を数式で表現するとしたら、どのような形になるだろうか、と。
授業中でも、女のことが思考から消えてはくれなかった。
「あー、えっと。無限級数の証明は飛ばすとします。アイについて話します」
何人かの塾生が反応した。中学生にとってアイという言葉は、アニメやドラマのなかだけで語られる遠いものだと思われると同時に、教室の片隅に落ちているのではないかとついつい探してしまう類のものだ。関心を引かないわけがないが、男は戸惑った。
「誤解させたかもしれない。アイは虚数、イマジナリーナンバー、想像上の数のことだ」
「想像上の数?」
「二乗するとマイナスイチになる。そんな数どこにもないはずだろ?」
「なんで?」
「プラスを二乗してもマイナスを二乗してもプラスだ」
「そっか」
「オイラーの公式はアイジョウを定義する式。想像上の数のはずのアイが現実と結びついている。虚実の壁をアイが越えることこそが、この式が数学史上最も美しい公式だと言われる所以だろう」
男はさらに書き連ねる。オイラーの公式にパイを代入し、ホワイトボードの左半分を消してから、そこにより簡潔になった等式を大きく描いた。ネピア数の脈動が静かに耳に響く。パイの柔らかな曲線にそっと触れる。アイの空虚と充足とが胸を満たす。ゼロの輪を閉じる瞬間、男は絶頂に至る。
「やっぱりよくわかりませーん」
「あはは、ちょっと難しかったな」
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