山積みになった手紙の束
「そうでしたか。おめでとうございます」
力ないその言葉に嘘はない。女は心の底から男の幸福を祝い、願っていた。だが、同時にその配偶者となる女への嫉妬や憎悪を孕んでいるのも事実だった。職員室を満たす浮ついた空気に耐え切れず、職員用トイレに駆け込んだ。
――良かった。やっと終わった。
個室の扉を閉めた瞬間、涙がこぼれた。終わりが次のなにかの始まりだとは、到底まだ考えられない。三十年の人生をふりかえってみても、これほどきらめいていた時はない。最良の時を過ごした、遅すぎた青春だった。壊れることを恐れた故に、一歩を踏み出せずに終わった青春だった。
三十なんてババアじゃん、といってのける中学生たちのぎらぎらとした視線がなんとなく可愛いと思うようになったのも、あの男のせいだったのに。終わってしまったのだ。
「だって、まだ中学生ですよ。怖いんです。不安なんです。自分が何者なのかわからなくって。だから、彼らだってもがいてるんですよ。だから、許してやりましょうよ」
――彼らだって? なら、あなたも? 怖いの? もがいているの?
「お前さ、付き合ってるやついんの?」
「いや、いないけど」
進学校専門の塾、しかもその特進クラスに通うのは同じ中学で一人だけ。サッカー部のキャプテン。県大会のベストエイトで敗退してから、あっというまに一般クラスから優秀生クラス、特進クラスへと一瞬にして駆け上がった。今まで少女が話すことのなかった人種だった、というより、少女が学校で話すのはほんの一部のクラスメイトだけだったのだが。
「じゃあさ、俺と付き合わねえ?」
二年半、学年トップを誰にも譲らなかった。少年がサッカー部を引退すると、その次の中間テストで彼が学年二位、その次の期末テストにはもう抜かれた。
「なんで?」
「なんでって……。だって俺、数学だけどうしてもお前に勝てないから」
駐輪場の電灯が消えかけていた。少女は返事もせず、少年を置き去りにその場を後にした。
――あれって、なんだったんだろう。
女は、どうしてそんな昔のことを思い出すのかわからなかった。
家に帰ると着替えもせず、グラス一杯の水道水を持って机に向かった。ラップトップを開き、〈to him〉フォルダを開き、新しいテキストファイルを作成した。綴る言葉は無味乾燥として、茫漠とした文章に草木が芽生え得ないことは明らかだった。花も実りもない。なにものへも繋がらない無意味な語の羅列。
完成した。便箋を取り出し、フリクションボールペンで手書きの清書をする。封筒におさめると、V字に舐めて丁寧に封をし、過去に書いた分の一番上へと置いた。いつか心に火を灯すあらたな恋が、したためた過去の言葉と恋を灰にしてくれますようにと願った。
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