白い猫、少女、星の欠片
「明日から三日間雪だって」
「ああ、もうそんな季節か」
「なに寝ぼけたこと言ってんの。早くこたつから出て仕事行きなさいよ」
「ああ」
見るでもなくつけていたテレビから、八十三歳の老人の飛び降り自殺のニュースが流れている。東京に住んでいた頃、あのあたりは営業でよく回らされた。どうせ団地など年寄りしか住んでいないのだから回ったって無駄だ。そういっても聞き入れられなかった。
八十三歳ならまだ若いではないか。男は三十五歳、半分にも満たないのになにを知ったようなことを。我ながらそう思った。と同時に、八十三歳になった自分を想像した。なにも変わらない。
家を出た。朝の冷たい空気が肌に触れ、皮膚が割れるように冷たい。その感覚に郷愁を覚える。東京よりもはるかに冷たいはずの故郷の風には、なぜか刺さるような鋭さはない。雪に触れる感覚に似ていた。体温とゆっくり混ざり合う風だ。東京の空気は男の肌と混ざり合うことなく、表皮を裂くような鋭さを孕んでいる。剥がされていく肌の隙間から、体内の熱が漏れ出していく。反対だった。あの街の風は、からだの内に冷気をゆっくりと浸透させていく。冬の真っ白い雪の上で、同じく白い子猫が眠っていたことがあった。おどろかせないよう息を潜めて距離を縮めていき、そっと両手のひらで包み込んだが、すでに冷たかった。生と死の境を曖昧にしてしまう故郷の冬を、男はかつて憎んでいたはずだった。
「見えない翼。そういうのって信じる?」
「なにそれ、意味わからん」
「アハハ。あたしだってわかんないよ」
「なら僕にわかるわけないじゃん」
「そうとも限らないじゃん。あたしの知らないあたしのこと、君が知ってることだってあってもいいでしょ?」
――彼女に見えない翼はなかった。もちろん見える翼も。飛べるはずがなかった。
小さな街だ。噂はすぐに広まり、疎遠になっていたはずの男の耳にも届いた。そのとき思い出したのが、冬の白い猫だった。雪の上で冷たくなった小さなからだは、降ったばかりの雪のように軽かった。
車を走らせる。通勤時間の道路は混んでいた。それを見越して、いつもなら十五分で着くところを、二十五分ないし三十分で見て家を出た。それでも間に合わない時には、電話連絡を入れればすむ。どうせ他の者も遅刻しているのだ。
「おはようございます」
会社に到着する。今日の外回りが誰かを確認し、PCを起動、メールを確認、熱いコーヒーを淹れるのが朝のルーティンだった。
一番乗りということは、今日は反対の道で事故かなにかあったのかもしれない。いつもであれば事務員の女が先に来て、デスク周りの掃除をしている。最近、その女との距離が縮まっている。あの少女に似ている。妻から変に勘繰られる前に少し距離をとっておきたかった。
「飛べるなら、飛んでみたいと思わない?」
「そりゃあ飛べるならね。でも、僕らは鳥じゃない」
「飛ぶのは鳥の特権?」
「違う? 考えるのが人間の特権のように」
「考える、なんて鳥だってできるかもしれないよ。どうして君は、鳥はなにも考えていないなんて言えるの?」
「わからないけど、人間ほど洗練された思考能力を備えた生き物って他にいないでしょ?」
「それだってわからないでしょ。決めつけないで」
「別に、決めつけてないけど……」
――三階って少し半端じゃないか。死ねなかったかもしれないじゃないか。
男は窓の外を見た。雪が降り始めた。白い羽のようだった。雪が美しいのは、それが死んだ星の欠片だからだよ。少女がそういっていたのを思い出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます