鳶の鳴き声

「風が出てる」


 舐めた指先を高くかかげ、物知り顔で男は女を見た。そんな方法で確かめずとも、靡く女の長い髪で十分すぎるほど風が見えた。湿ったままの指先で、男は女の頬に触れる。女は不快に思うが、微塵も表情には出さなかった。波音が沈黙を埋める。波打ち際で風をつかまえた鳶が、低い空から人間を見下ろしていた。獲物を探している。


 ――どうしてこの人、こんな場所でスーツなんて着てるんだろ?


「僕が助けてやったんだよ。彼女を。それなのにさ、彼女もすぐに辞めちゃった。ありがとうの一言もなしに。いや、一度だけ言われたっけ、忘れた。それにしても、僕には彼女のことがちっとも理解できなかった。あれだけ酷い仕打ちを受けてきたのに、どうしてそこから解放されたのに、あんなに苦しそうな顔をするんだろうって。不思議で仕方なかったな」


 ――あたしにも、あなたが不思議で仕方ないんだけどな。


 ピュー、ヒョロロロロロロロー。

 太陽を背負うと、図書館のうえの高い空に虹が出ていた。人工芝の上にまかれた細かい砂粒は、微かに茶色く濡れている。知らぬ間に雨が降った。遠くの空に僅かに雲が残るだけで、虹もいくらか場違いに見えた。湿った風は冷たい。午後になって、雨が降って、気温がさがった。


「スケツォフレニアって花の名前みたいだよね」

「うん。菫みたいな、綺麗な紫色をしてそう。あるいは彼岸花のような赤」

「彼岸花の学名はリコリス・ラジアータって言うんだよ。綺麗な響きじゃない?」

「そうね。鮮烈な色をしている」


 ――緑色のコートで、どうして緑色のボールを使うのだろう。



 ピュー、ヒョロロロロロロロー。


「どうしてあんなに低い所を飛んでいるの?」

「だって、ほら。ああして浜辺でご飯食べている人がいるでしょ。あれ、奪うんだよ」

「え、鳶が?」

「そうだよ。看板、たくさんあるでしょ」


 男は広場の看板を指さした。いくつも注意書きがあった。海の近くに住む者にとっては常識らしい。被害にあうのは観光客。自然のなかに食料を求めるより、人間から奪う方が容易い。鳶は利口だ。空を自由に、風を自由に、人を自由に、操っている。鳶は利口だ。


「鳶はのろまだから、狩はそれほど上手じゃない。でも、人間はもっとのろまだから、簡単に奪えるんだよ」

「簡単に?」

「あと、死体なんかも食べるっていうよね」


 ——死体。へえ、死体か。


「ねえ、スーツ、こんなところで着ない方が良いと思うよ」

「え、そうかな」


 ピュー、ヒョロロロロロロロー。

 高い音が宙空をつんざいて、その隙から光が漏れだした。太陽の光と違い、鋭い青い光だ。水の中。空の青には、海が隠されている。海は空を映すから青いのだ。空は海を内に宿しているから青いのだ。そういう青い光が漏れ出している。海底を照らす淡い光のように、空が死体を照らしている。

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