くずれ落ちる

「何時に帰ってくるの?」


 夫の親友のことは何度も聞いていた。


「わからない。できるだけ早く帰るつもりだけど……」


 だけど、に続く沈黙に解釈を与えるならば、妻より友を優先したいという意味になる。状況が状況なのだから仕方がないだろう。納得してくれ。お前のことだって大事にしているではないか。そのどれも、夫が口に出して言うことはない。


「そう」


 女はそれだけ言うと、扉が閉まるまで玄関に立っていた。バタン。閉じると同時に、玄関は真っ暗になった。



 チンアナゴが小さな穴からひょろりとからだを伸ばし、浮遊する小さな白い物体を口先でつつく。首を振って次の餌をさがす。つつく。いつまでも続くその光景を二人で眺めていた。疲れると、通路に出て、ベンチで休んだ。それからまたチンアナゴの水槽の前に屈んで、水の中を覗き込んだ。ねえ、次のを見ようよ。何度その言葉を口にしようとして飲み込んだかわからない。それを口にすれば、今日という日が終わってしまう気がした。だから、チンアナゴに興味が無くても、じっと彼の隣で単調な食事風景を見続けた。それも悪くはなかった。


――私と一緒にいて楽しい?


「楽しいよ、もちろん」


――いないと寂しいなって思う?


「当たり前だろ」


――ずっと一緒にいてくれる?


「ああ。ずっと一緒だ」


 結婚にこぎつけるのは簡単だった。関係から導き出せる結論はそれ以外に見当たらないし、女は望んでいた。夫には、それを拒む理由はなかった。優しすぎる彼が嘘をつかなくて良いように、質問を慎重に選び続けた。そうしてたどり着いた場所がここなのだ。


 ――私のこと、愛してる?


 一度も訊いたことがない。一度も、愛しているという言葉を聞いたことがない。夫はそういう人だ、夫はそういう人だ、夫はそういう人だ。

 ベッドのなかで互いの熱を感じながら視線を交わしても、静かな息のなかにその言葉は見つからなかった。確かな愛情があるならば、沈黙ですら耳障りなほど響き渡るというのに。なのに夫は時々、悲痛な表情を浮かべて涙をこぼす。何がそんなに苦しいの、という言葉も女は言わない。彼が沈黙を選ぶのだからと、女も共に沈黙を選んだのだ。一緒にいればそれだけでいいと、自分を納得させた。



 ブブ。テーブルに置かれたスマホが鳴った。


「ごめん。遅くなりそうだ。ご飯、食べといて」


 ――私が知らないとでも思ってるの? あなたのこと愛してるのよ?


 夫のことならなんでも知っている。夫の好きな人は、夫のことを好きではない。夫の好きな人は、夫と深い関係にある。夫の好きな人は、なかなかハンサムだ。聞く限りでは、とても素敵な人だ。良い趣味しているな。私がさきに出会っていたら、その人んおことを好きになっていたかもね。そしたらきっと、良いライバルになれたのに。

 と女は思う。


 雨が降るなか、女は傘を持って家を出た。

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