星が降るまで待っていて
「もうちょっとですかね」
隣の妻の顔を、男は不安げに覗き込んだ。妻は自分の大きなお腹を撫でながら穏やかな笑みを浮かべる。その顔に男はようやく安らいでから、思った。これでは立場が逆ではないか。夫たる自分こそが、妻を安心させなければならないのではないか。妻の手を握った。海のように冷たく湿っている。
額の汗を拭いてやった。
妻は窓から見える遠くのサーファーを見ていた。凪いだ海に間隔をあけて、ぽつんぽつんと蟻のような黒い影が水面に浮かんでいるところへ、申し訳程度にあわい波が立った。
「お父さんも、あのなかにいるのかもね」
「ああ」
義父は三年前に亡くなった。いるはずがない海に義父を探した。
男は否定しなかった。妻にそう言われると、実際そんな気がした。海は巡るものなのだと義父にいわれ、意味はわからなかった。巡るもの。海流は陸沿いに大きくうねりながら進み、世界中を繋ぐ。窓から見える静かな海もまた、どこかでだれかが見ている海とも繋がっているのだろう。冬の海にもちらほらと人影が見える。サーファー。犬の散歩をする人。砂浜への階段に座る人。水族館からふらふらと流れてきた人。
海の街で生まれ育った妻にとってはありふれた光景でも、男には新鮮だ。この時期、男の地元はすべて凍てつく氷で覆い尽くされる。雪ではない、氷だ。八ヶ岳にぶつかった雲は水分をすべて奪われ、乾いた風が大地を凍らせる。時々高い空から降る細かな雪は、ゆっくり流れる星のようだった。そうして輝く細かな雪ですら、かつては海の一部だった。そしていつか、海の一部になる。山奥では、雪よりも星が多く降る。空が近い。山の中にある村なのだから、平地よりもはるかに宇宙に近い。惑星の時間は人よりもゆるやかに流れている。そして、惑星の時間は宇宙よりもゆるやかに流れている。
海は巡る。義父がそこにいるなんてことがあり得るか否かより、信じるか否かが男にとっては問題だった。
「流れ星にお願いしたことある?」
「ありますよ。何度も」
二人はまだ大学生、当時は付き合ってもいなかった。
二つ上の学年で、同じサークルの仲間だった。夏合宿で山梨県の民宿に泊まり、花火をした時のことだ。皆が手持ち花火やロケット花火に興じるなか、妻だけが暗い湖を眺めていた。
男は隣に座った。夏でも、山の夜は冷える。ジャージに短パンでは寒い。ほんの優しさのつもりで、羽織っていたカーディガンを足に掛けてやった。風のない夜の湖面に星が映り込んでいた。遠くで仲間たちの声が聞こえるのに、静かだと思った。
「そういうの、好きな子にやってあげなよ」
「いいんです。今、そういう人いないんで。先輩はなにをお願いするんですか?」
空を星が流れた。男は息を呑んで隣を見た。彼女は湖面に映る星々を見ているようだった。星が流れたことは言わなかった。
「もう二つ、流れ星を見せてくださいってお願いするの」
「ハハハ。欲張りですね」
「うん、でしょう。それでね、その二つにもまた同じお願いをする」
「困った。そのうち流星雨になりますね」
「うん。要するに、私のお願いって、そういうお願いなの」
その夜、空は曇り始め、流れ星どころか、デネブやベガ、アルタイルすら見えなくなった。鏡のような湖面はにわかに乱れ、星の光をいくつも散らした。
この人と結婚する。そんな考えが頭をよぎったのは思い違いではない。男は今でもあの時の不思議な確信を思い返すことがあるのだ。
「今日もまだ、星は見えないかな」
「うん。曇ってるみたい」
「海の見える病院で生まれたんだよって」
「え?」
「この子が生まれたら、教えてあげようと思って」
「うん」
「お父さんもきっと、喜んでるから」
「うん」
海は巡る。星も水も光も巡る。男は信じてみようと思った。
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