豆腐

「だってそれ、お前のせいじゃないだろ」


 男の友人は半ば涙ぐみながら、まるで自分のことかのように嘆いてみせた。そういう素直なところが好ましいと同時に、少し鬱陶しくも感じられる。慰めたり励ましたり、そういうつもりなのはわかる。だが、こんな時くらいは黙っていてくれれば気が楽なのに。かえってこっちが気を使うではないか。



「ずっと前のことだけどね、あの子が生まれる前の話」


 妻に言われた話はぴんとこなかった。

 彼女が妊娠し、安定期に入ってからのことだ。会社の同僚の男に言われた。彼女が妊娠する前にそのことを知っていたと。気味が悪かった。唐突にそんなことを言う理由がわからなかった。男は妻を夢で見たという。大きなお腹で出勤し、平然と仕事をしていたのだ、と。男もしばらく気にもしなかったが、妻が安定期に入るまで産休に入ると聞いて驚いた。予知夢。あるいは無意識的な感覚が夢として表れた。いずれにしても、信じがたい。話はそれで終わらなかった。


「他にもいくつか夢を見たんだって。その全部は教えてくれなかった。きっと、今のあたしのことも夢に見たんだと思う。言えなかったんだね。その人、その後すぐに会社辞めちゃった。あたしがあの子を産んでからは、一度も会ってないの」

「そんなの偶然だろう。もしそれが本当だとしたって、なにができたっていうんだ」

「ううん、違うの。なんだかね、思い出しただけ」


 妻はふふっと軽い息を吐いて笑った。それが彼女の癖だった。



「それが浮気相手だったって言うのかよ。で、娘がそいつの子供だってか? 考えすぎだろ」


 今度は半ば憤怒の情を示しながら、半ば戸惑っているようだった。どんな言葉を返せばいいのか、本気で迷っている。相談したつもりが、男はその優しすぎる友人の方が気がかりになってしまった。


 ――馬鹿なやつだなあ。


 そう思いながらも、気づかわれるより、気づかう方がずっと楽だと知った。



 娘は十八歳。春になれば大学生だ。ほとんど親の手を離れている。夏にアルバイトを辞めた。だって退屈だったんだもん、と娘は言う。それならどうして二年間も続けられたんだ、と男は聞けなかった。理由は明白。妻の病状に加え、疲弊しきった男のことを案じたからだ。


 ――馬鹿なやつだなあ。


「アハハ。それ、すっごく楽しそうだね」

「なに馬鹿なこと言ってるんだ。もう、大変だったんだからな」


 豆腐を買い忘れた。麻婆豆腐をつくるのに豆腐を買い忘れる馬鹿がどこにいる、と過去に何度か妻に言いかけたことを思い出した。

 帰ってきた娘に話すと、麻婆豆腐をつくるのに豆腐を買い忘れる馬鹿がどこにいるっての、と笑われた。嬉しくなって男が笑うと、なに笑ってるの、気持ち悪いよ、といって娘は冷ややかな視線を向けながらも、微かに口の端に微笑が浮かぶ。妻の若い頃によく似た笑顔だった。

 雨のなか、ふたりで近所のコンビニまで歩いた。売ってるかもわからない豆腐をコンビニまで買いに。

 疑ったなんて馬鹿みたいだ。結局、娘は自分にもよく似ているじゃないか。


「一緒に入っていい?」


 娘が自分の傘をたたんだ。親の気持ちも知らないくせに、と思っていたのがつい最近のことのようだ。などと感傷にひたる暇もなく、雨は激しく傘を打った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る