空の近くで空を知る


「もう雨やんだのかな」

「やんだみたいだよ。傘さしてる人いないし」


 二十二階から通りを歩く人々を見下ろした。小さな人たちの手には、たたまれた色とりどりの傘がにぎられている。遠くてもよくわかった。富士山は見えないが、西の空は晴れ始めている。空の近くにいると、変化がよく見える。はるか遠くまで見通すことができる。地上を這って歩く彼らよりも。

 隣のデスクに視線を戻すと、そこには見慣れた顔がある。週に七度は会っていた。栗色のショートは、はじめて会った時と色も形も変わっていない気がする。季節はめぐり、その間に何回も染め直して切ったはずなのに、時間のうつろいを感じさせてはくれない。しわだって増えていない、と微かな嫉妬をこめて思う。


「西が晴れだと明日は晴れる」「天気は西から変わるからね。でも、雨ってどこから来るか、実際のところよくわからないよ」「そういうもん?」「そういうもん。四十日間ふりつづけた雨がやんでその後に出た虹は、神さまとの約束の証だってさ」「アハハ、なんの話かよくわかんない」「うん、うちも」「まいっか」「ね」




「弁当屋の娘が。弁当くせえんだよ!」


 ――もっとましな悪口思いつかないの?


 一々反応すれば喜ぶのを知っていた。嫌がれば嫌がるほどつけあがるものだ。という幼い少女の考えは、同じく幼い獣たちによって、たやすく覆された。上履きや靴が隠されるなんてかわいいもので、あるのに履けない現実のほうがつらい。レベル一、画びょう。レベル二、犬の糞。レベル三、死んだゴキブリ。レベル四、生きたゴキブリ。そこまでやるか。親には言えなかった。教師にはもっと言えなかった。友達はいなかった。八方塞がり。少女はそのうち、自分にはなにもできないのだと気がつく。一番暗い底に足をつけば、もう何も恐れる必要はない、どうせなにもできないのだ。死を選択肢として手にした瞬間の気楽さは意外だった。

 空気の変化は察するもので、一時いじめはエスカレートしたが、かえって以前よりもあっけらかんとした表情を見せるもので、怖くなったのか、関わる人は減っていった。リーダー格の生徒もついに手を引いた。死を引き寄せたことで、人を遠ざけた。誰もが永遠の命を信じてでもいるかのようにいつか死ぬことを忘れて生きているのがおかしい気がした。少女は、いつか死ぬ、という事実を知って恐怖しながらも、訪れる静寂を仮想的に経験しようと、むさぼるように眠った。そうしていじめは終わった。




「傘、忘れないようにしなきゃね」「別に忘れてもいいじゃん。そしたら明日持って帰れば」「仕事熱心だね」「え?」「明日は土曜日だよ」「ああ、そっか」「ハハ」


 沈んだ太陽を追いかけるように、船の形をした月が沈む。金曜夜なのに飲みには行かず、二人でマンガ喫茶。ペアシートで女同士ふたりきり。そんな時間が会社の飲み会よりも居心地良かった。コンセントに充電器をさした。ドリンクバーでウーロン茶を持ってきて、ソフトクリームも。映画をみることもあれば、それぞれ好きなマンガを持ってきて読むこともある。なにもしないこともある。じっと身動き取らずに、互いの過去を覗き込むのだ。


「暗い話しようよ」「どんな」「いじめられてた時の話、聞かせて」「好きだね、その話」「だって、私にとってはフィクションみたいなものだから」「でも、うちにとっては一番思い出したくない話なのに」「それでも私と一緒なら、思い出せるんでしょう? 怖くないのでしょう?」「そうだけど」「なら、リハビリだと思って」「もう、そんなの必要ないと思うけどな。今いじめられてるわけじゃないんだし」「はっきりと覚えているなら、今でも過去でも同じ。傷ついたことから目をそらす必要なんてないんだから」


 秋口だというのに、室内はエアコンがよく効いている。女は身震いした。今でもあの時のことを思い出すと、身の毛がよだつ。なにもしなかったこと。なにもできなかったこと。なにをしても無駄だと思っていたこと。死を思うと、不思議と世界が鮮明に見えたこと。今でもどこかで、身動きできずに苦しんでいる誰かがいること。そんな誰かに、死が人を救うこともあるのだと知ってほしかった。


「ちょっと、寒くない?」

「うん。でも、明日はきっと晴れるよ」

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