這うつたの緑はあわい

 喫煙所に赴くのは一日に三回。朝の出社時。昼食後に集中が切れ始めたころ。そして退社時。女性社員で煙草を吸うのは部長か女くらいで、喫煙所ではもてはやされた。


「えー、そうなんですかあ。すごいですねえ」


 特に意味もない、つまらない言葉で応じる。そんなことで男は喜ぶのか。と女は思う。煙草の火を消し、午後の残りの仕事を片付けるため、エレベーターホールへ向かった。比較的空いている時間とはいえ、執務室と喫煙所の往復だけでも五分以上かかる。良い顔はされなかった。喫煙者はもはやマイノリティ。そのため、定時よりも必ず十五分早く出社し、必ず十五分遅く退社する。残業はつけていない。それでも女は嫌味を言われら。


 ――お前らより働いてんだよ。くそが。




「男子、掃除サボんなよ!」「しゃーねーじゃん。部活あんだから」「しゃーねーじゃねーよ。あたしだって部活あんだよ!」「なにそれ。じゃあお前もサボれよ」「じゃあ誰が掃除すんの?」「知らね。暇なやつじゃねえの」


 文化祭では係りでもないのにでしゃばるくせに、日々の雑務はすんなりサボる。少女は手に持っていたほうきを投げつけた。閉じられたドアにぶつかり、カランと音を立てた。もうひとり、真面目に掃除をしていた女子がそのほうきを拾い上げ、少女に手渡した。


「掃除、しよ」

「いつもごめんね」

「なんであやまるの。掃除してないのはあいつらでしょ」


 性格もクラスでの立ち位置もまるで違う二人が話す姿を見て、他のクラスメイトは不思議がった。特に男子は、おとなしい彼女とよく喋る女とを見比べて、と思ったらしい。女にとっては、彼女だけが互いに理解できる、見えているものが同じ唯一の同世代だと思っていた。




 都内から私鉄でくだってJRに乗り換える。飲食店から伸びたダクトが照明の光を弾きかえす。それが女には眩しく感じられた。隣には缶ビール片手に陰鬱な表情を浮かべる中年。コントラストが一層その光を強く感じさせたのだろう。煙草が吸いたくなった。ホームで吸うわけにはいかない。と、隣の中年が飲み終えた缶ビールを線路に投げ捨て、おもむろに胸元から煙草をだして火をつけた。


「申し訳ございません。お客様、こちらでの喫煙はご遠慮いただけませんでしょうか」


 駅員が注意した。酔っ払った男はうつろな視線を駅員に向けた。力も意志も感じられない瞳だった。

 ごつんと一発、男の拳が駅員のテンプルを打ち抜いた。不意打ちだったこともあり、中年よりもいくらかからだの大きな駅員はあっさりその場に倒れた。週末の終電間際ならまだしも、水曜日の夕暮れ時に見る光景としては珍しく、人も多い。人だかりができるかと思いきや、パッと人が散った。誰もがかかわりたくないと思ったのだろう。


「おじさん、やめなよ」


 女が言った。中年はさっきと同じくうつろな瞳を向け、火の点いたままの煙草を線路に捨てると、女に殴りかかった。女は煙草を吸いたくて苛立っていた。横で自由に吸う姿に、余計に苛立った。飛んできた拳をもぐりこむようにかわし、腕をとると、そのまま捻り上げた。男がウウっと低い呻き声をあげ、その場に倒れこんだ。今さらながら、横たわっていた駅員が起きあがり、ありがとうございます、と言った。一瞬の沈黙。そして拍手。

 苛立っていたからそうしただけだった。再び、彼女に会いたくなった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る