君はどこへ行くの


「駅前まで乗ってく?」

「ううん。やめとく。バスにするわ」


 女は視線も合わさなかった。男は継ぐべき言葉を見つからない。よく聞こえなかった気がして、運転席側の窓を半分ほどおろした。踵の高い靴を履いているためか、いつもより大きく見えた。

 彼女の後ろには、共に長い月日を過ごした部屋がある。床や壁の傷も家具も埃も、なにもかも綺麗にしてから引き渡しを済ませた。まるまる戻ってきた敷金は等分した。男が女に渡した数枚の紙幣は新しく、手を切ってしまいそうなほど薄かった。


「じゃあ、行くね」

「ああ」


 話は尽きなかった。趣味や考え方が近いというだけでなく、価値観も合っていたし、互いに話し合える程度に大人だった。セックスの相性だって良かった。不満がまったくないわけではなかったが、一つひとつ困難を解決していくだけの忍耐と協調性を持ち合わせているはずだった。

 なのに、二人は家族にはなれなかった。欠けていた。だが、なにが欠けているのか、男にはわからなかった。

 高校の体育館裏で告白。六年間付き合って、大学卒業と同時にプロポーズ。入社一年目は色々あったが、二年目には生活は軌道に乗った。結婚四年目にかすかな亀裂が生じた。埋める間もなく時は流れ、騙しだまし維持していた生活も八年目で終焉を迎えた。

 子供はできなかった。両親を早くに亡くし、新しく家族を築くことに男は大きな期待を抱いていた。父も母もよく知らないが、家族は作れる。その根拠のない自信が妻を傷つけてきたのか。紐帯にたいする執着心が重苦しかったのか。家族になる前に、婚姻関係は終わってしまったのだ。


 車を出した。駅とは反対の方向だが、どこかに行く予定もなかった。ただ、元妻とは同じ道を進むわけにはいかない、そう思っただけだった。


「新しい課ができたから」「へ?」「だから、異動だよ。わかるだろ」「はあ」「はあ、じゃないだろう。まったく、いつまで若いつもりでいるんだよ。もうとっくに新人じゃねえんだぞ」「はい。申し訳ございません」「ったく、謝罪だけはいっぱしのつもりか」「いえ。申し訳ございません」「ああ、もういいっての」「はい……」


 仕事を家庭に持ち込むべきではない。気分も持ち込むべきではない。感情を通勤の過程で落としてから帰るつもりでいたのに、いつしかそれができなくなっていた。

 妻との温度差に苦しんだ。パートの愚痴など聞きたくなかった。苛立ちが募った。稼いでいるのは自分だ。家に帰ってまで、どうして妻のつまらない話に付き合わなければならないのだ。そうして自分の怒りを妻にぶつけることが理不尽だとわかっていたから、黙ってただ聞くことしかできなかった。

 ビールの空き缶が増えた。それが強アルコール系チューハイの空き缶に変わっていった。飲むにつれ、夜はぼんやりともやがかかったように薄れ、一日の密度が急速に小さくなるような気がした。つまみを乗せた白い皿に蛍光灯の冷たい光が反射していた。チューハイの缶が空になると、次の缶を開けて横に並べた。アルミ缶の銀色の表面に描かれた偽りの果実の印象だけが夜に貼り付き、剥がれないまま微かな頭痛とともに朝をむかえた。それが日常になった。


「結局、あなたに家族は向いていないのよ。恋人としては、あなた以上の人なんていないと思うけど」


 できなかった。できるはずだった。一人で生きていた。なにもかも自分の力で解決してきた。そういった自信が、八年間でゆっくりと崩れていった。曖昧な淡い期待など、窓から差し込む澄んだ朝の光にすべてかき消されてしまう。ぬくい光に溶けてしまいそうだと思っていた。妻は、その光を存分に浴びることのできる人だった。その妻は去った。男は、家族を作れなかった。


 雨がふりはじめ、フロントウィンドウを濡らした。ワイパーを動かすと、一瞬で扇形の視界がひらけた。ドリンクホルダーの空き缶を取り、後部座席に投げた。新しい缶を開けた。

 真っ直ぐ走った先には二人の卒業した高校がある。校門の前に車をとめた。校庭から体操着を着た高校生があわてて校舎にかけていく後ろ姿を見た。あのなかに自分がいないのが不自然だという気がした。

 瞬間、反対のドアを叩かれた。


「うちの高校になにかご用ですか」


 男は窓をおろすと、女はそこに肘を掛けた。烏の濡れ羽のような美しい髪のさきにしずくが光っていた。助手席に落ちた。長いまつげは下を向き、雨に濡れてまとまっていた。

 高校教師にしては若すぎるが、生徒にしてはませている。


「ああ、いえ。すみません、卒業生なもので」「はは。やっぱりそうだ。覚えてない、あたし」「え」「あたしもここの卒業生。っていうか、三年間同じクラスだったんだけど」「……え、ああもちろん。覚えてるよ」


 見覚えがある気はしたが、同級生とは思えなかった。肌は白くしずくを弾いて若々しく、妻とは違うと思った。頬のしたを這う細い血管が透けている。薄く唇のすきまからもれるつややかな言葉が、男の耳の奥へとぬるぬる這い入ってくるかのようにくすぐったかった。


「そういえば、あれ。あたし今でも覚えてるよ。体育館裏での告白。学年でちょっとした話題になったよね。あたしは恋愛とかまったく縁がなかったからなさ。高校時代ってさ、あたしにとってはちょっとした黒歴史」


 女は無遠慮に助手席に乗り込んだ。


「あれ、乗るの?」「うん、駄目? 雨降ってるってのに、そのまま外に立たせておく気なの?」「いや、別にいいけど」


 用事があるわけでもない。男はアクセルを踏んだ。


「で、どこに行くの?」


 高校の校庭を見るつもりで、左のほうをぼんやり見やった。景色がゆっくりと動いていた。つと、フロントガラスに光がさした。雨は降っているのに、晴れ間から太陽が顔をのぞかせた。

 骨まで見えてしまいそうなほどに女の肌は白く繊細だった。生きているのだろうか、と男は思った。速度をあげ、車をまっすぐ進めた。街がみるみるうちに後退していき、遠ざかっていく。駅とは反対の方向へと進んでいく。


「まだ、決めてない」


 先には、幼少期に過ごした家があることを思い出した。男はドリンクホルダーに手を伸ばした。缶は空になっていた。

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