消えない染み
「そこ、重ねといて」
「え、ここですか」
「ちがうちがう、そっち」
山積みの資料のうえにさらに情報を乗せていく。崩れるまえにかたづけた方が良いと思う気持ちだけが仕事をするモチベーションで、最下層に埋もれた忘れられたタスクを除けば、ぎりぎりのところで均衡を保ち続けていた。
デスクの資料のかげにかくれた缶コーヒーを一口飲み、ブッと床に吐きだした。固形物。床に黒いなにかが落ちている。異物が入っていたのか、ゴミを缶の中に捨てたのを忘れていたのか。さらに懲りずに書類に隠れた空いたままの缶コーヒーを見つけると、男はあおるように一気に飲み干した。
「先輩、大丈夫っすか?」
ひとつの山を片づけ終わる頃に、別の山が出来上がっている。シーシュポス的な連続に心が折れそうになりながらも、なにがまた山へと向かわせるのか。神による罰などないし、罪など犯したつもりはなかった。
「え、なにが?」
女はジャケットの胸元を指差した。弓形に細まった目は、薄く笑っているように見えた。自分のデスクのティッシュを箱ごと手に取ると、男の前に差し出した。
「なにがって、コーヒーのしみ」
男は胸元を見た。グレーのジャケットに、ちょうどアフリカ大陸を模したような形のしみができていた。
「あ、やべっ」
文化人類学専攻でアフリカに数か月間フィールドワークに出た経験をいかし、自然に生えている植物だけで染み抜きできます。そんな冗談を真面目な顔して話す彼女はアフリカそのものだ、と男は根拠もなく思う。
箱から取り出したティッシュで男の胸元を無遠慮に触れた。女は媚びているのか、世話好きなのか。なりに似合わぬ所帯染みた仕草は、むしろ男の気を引いた。
「ダメですね、脱いでもらわなきゃ」
書類を電子化するにあたり急ごしらえで設立された課に配属されたのは、首の皮一枚で繋がっている落ちこぼればかりだった。
男の他に、生まれてこのかた窓際ですといわんばかりの冴えない五十二歳の中年男、エリート街道を真っ直ぐのぼっていたはずの営業から異動になった三十三歳の課長、そしておよそ会社にくるのに相応しくないような服装の大学院卒の二十五歳の彼女こそが、男の唯一の後輩にあたる女だった。
——ああ、史上最弱のチームだ。
青年は立てなかった。左サイドで相手ディフェンスをひとりかわし、追われながらも右のアウトでカットインした瞬間だった。青年は痛みを感じなかった。ディフェンスの足も見えていなかった。ただ奇妙な角度で曲がった体の一部がほんの一瞬だけ目に映り、最初はそれが自分の足だとわからなかった。転倒した勢いで打った腰と頭の痛みだけは後になっても鮮明に覚えていた。集まってきたチームメイトの悲鳴に似た叫び声が聞こえ、担架に乗せられ、再び目を覚したのは病院のベッドだった。
折れた骨が筋肉と腱を傷つけ、皮膚を突き破った。開放骨折と呼ぶのだとはじめて知った。破られた皮膚から漏れ出したのは、血や骨だけではなかった。プロの練習参加や、国体選抜に選ばれたこともあったのだ。青年の過去は一瞬にして消えた。
「悲惨だよな。ベストエイト寸前で離脱って」「あの人がいたからここまでこれたってのもあるけどな」「まあ早々に代替わりできたんだからいいんじゃね」「しっ、馬鹿、聞こえるぞ」
男は雑音が聞こえてくる場所から遠ざかりたくて、都内の大学を選んだ。
大学ではギターを手にした。漠然と音楽が好きという理由だけで、軽音サークルに入った。ろくに弾きもせず、年間いくつフェスに参加できるか、友人やサークル仲間と競い合った。四年間上達しないまま、なんとなく卒業した。四年間はすっぽりとあいた穴でしかなかった。
——いや、違う。今もか。
「先輩、大丈夫っすか」
ジャケットを脱いだ。女はそれを受け取った。大きな染みは消えそうになかったが、それでも消せるというのだ。男は任せてみようと思った。
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