はじまりとおわり
「朝、早いんだね」
「うん。誰もいない教室が好きなんだよね」
——なに、気取っちゃって。
朝の学校のしっとりと濡れた冷たい空気に満たされていた。二人きりの教室には、中学生独特の蒸れるような熱や臭気はまだ生まれていない。
少女は少年を見つけた。朝練のつもりで出てきたのに、急に雨が強くなって仕方なく切り上げてきたのだ。
少年は机をすべてうしろに下げ、モップで半分掃除して、今度は机をすべてまえに出し、もう半分を掃除した。掃除の時間に全員でやるよりも、ずっと早く、しかも綺麗になった。彼が掃除しているあいだ、少女は少年から見えないよう、体操着から制服へと着替えた。少年は掃除に集中していて、まるで気にかけてはいなかった。
「なんで掃除してんの?」「だって、教室が汚いのっていやじゃん」「でもあんた、放課後の掃除は一回もでたことないじゃん」「だって、どうせみんないるだけで、真面目に掃除しようとしてるやつなんていないじゃん。あんなの時間の無駄」
――なるほど、一理ある。
陸上部がトラックを使えることなどほとんどなかった。女はいつもグランドの端で、サッカー部と野球部の邪魔にならないよう注意を払いながら走った。野球部が外周、サッカー部が休憩中という好条件時に、今がチャンスとばかりにトラックを走り、計測した。
「自分で計測すればいいじゃん」「そうだけど、タイムが気になると集中できないタイプなんだよ」「そういうもん?」「うん。そういうもん」
――ちょうど良いじゃん。
「じゃあ、放課後なにか用事があるってんじゃないの?」
「まあ、ただ掃除が馬鹿らしいだけ」
「ならさ、ちょっと付き合ってよ」
野球部の声がどこからか聞こえた気がした。毎年二回戦かせいぜい三回戦といった弱小にもかかわらず、威勢だけはいい。野太い声がゆっくり近づき、少女をせかす。パン。と、ピストル代わりに手を叩いた。太腿に体重が伝わり、身体が前に押される。軽い。少年が見ていると思うと、足はさらに軽く感じられた。
「どうして付き合わなかったの? 告白されたんでしょ」
「どうしてだろうね。好きだったのに」
日本酒の甘い香りが鼻に抜けた。ビールや酎ハイの爽快感はもはや自分にふさわしくない。いつしかそう思うようになった。ワインは気取り過ぎている。焼酎は辛すぎる。酒に酔うことでしか、記憶にひたって気持ちよくなれない。しらふの思い出は焼酎よりもずっと辛く、女はそれを後悔と呼ぶ。ガラス売りに鉢を落とすボードレールの詩が脳裏をよぎると、退廃的な気分に支配されて深海に沈みたくなる。方法は、まだ知らない。
「だからって、あんたに責任があるわけじゃないでしょ」
「わかってるよ。後悔してるのは、そういう理由じゃなくって」
枝豆をピュっと飛ばして、器用に口へと放り込んだ。下品な食べ方に斜め向かいの友人が眉をしかめた。片手で拝むようにして顔の前に出し、少し頭を下げた。おちょこをちびちびと啜り、濃厚な香りに気分がよくなる。
「スタートしたらさ、いつかゴールするって思うとさ。なんか寂しくって」
——たく、気取ってるのは誰だっての。
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