深まる


「帰ってきたと思えば、いきなり」


 ――それはこっちのセリフでもあるよ。いきなり。


 男はそんな言葉で出迎えられるとは思わなかった。十年近く帰っていなかった。四時間ほど車で走ればいい距離。近かった。

 きっかけは娘だ。血の繋がらない娘。


「あたし、パパの家、行ってみたいけど」


 血の繋がらない孫を複雑な表情で見つめる老婆は、鍬をもって家のうらの小さな畑へ消えた。

 不安気に男を見上げる少女。大丈夫、という意味をこめて微笑み、男は頷いた。少女は男の手をつよく握りしめた。


 ――大丈夫。大丈夫。大丈夫。




「また転んだのか。いじめられたのか」


 転んだか、いじめられたか、そんなことはどうでも良かった。

 少年だった男が怪我をして帰れば、心配をするのは母ではなく、いつも父だった。膝から伝う血のあとはすでにすっかり乾いていたし、とうに怪我のことなど忘れていた。父に言われ、膝が痛むことを思い出した。あ、と声が漏れ、急に少年は泣きたくなった。

 夏だったか、冬だったか。ほほを伝う涙を、がさがさと乾いた親指が拭きとった。土で顔が汚れた。


「ほら、大丈夫だから。ほら、父ちゃんが洗ってやるから」


 父の指は白く、細かった。洗濯したばかりの日のにおいのするタオルで、そっと顔の汚れを拭った。頭に軽く手をのせると、たくさん遊んでえらいぞ、といって笑った。優しい父だったのだ。




「ねえ、パパ?」


 少女は握ったその手をかるく振った。


「ああ、すまん」


 男が少女にそう呼ばれるようになるまで、長くはかからなかった。妻の元夫は「お父さん」と呼ばれていた。父として認められたのではなく、もう一人の保護者として認められただけだ。そうして娘は母親のことも「お母さん」ではなく、「ママ」と呼ぶようになった。


「先、入っててくれ」


 玄関の引き戸に手をかけた。がらん、と戸が鈍い音を立て、ぎこちなく滑った。こざっぱりとした玄関は棚には三足しか靴がない。上には空の花瓶が置かれていた。父が生きていたころは、決まって花が活けてあった。


「うん」


 少女はかまちに腰をおろすと、靴をそろえて脱いだ。すっくと立ち上がると、男と視線が近づく。


「あれ、また大きくなったか」


「パパ、この間も同じこと言ってたよ」


「……そうか」


 男は脇から裏手の畑にまわった。一畝ほどの小さな畑で毎年夏野菜を作っている。季節は過ぎ、マルチは剥がされ、綺麗にならされている。鍬など持ってやることなどないはずだ。十年前となにひとつ変わっていない。畑も、ツンと冷えた空気も。矍鑠とした老婆の真っすぐに伸びる背中も。

 葉は落ち始めていた。山の冬は早い。紅く色づいた葉はあっというまに禿げ、一面に敷き詰められる。鹿の声も遠く、しんと冬の静けさが空の青に沈んでいた。老婆はなにも言葉にしないまま、男の前を通り過ぎた。観念したのか、素直に家のなかへと戻った。



「もう、コタツ出してるんだね」


 少女は、男にか、はたまた老婆にか、話しかけた。三人は睨み合うように順々に視線を交わしたあとに、男が答えた。


「ここじゃ普通だよ。そろそろ霜もおりるし」


「シモ?」


「霜だよ。霜柱」


 少女は半ば口をあけ、視線をそらした。タイミングを図ったかのように視線を老婆に視線を向けると、うんと頷く。


「ええっ! だって、まだ十月だよ!」


 少女の住む場所では、秋はまだ長けてもいなかった。コンビニに並ぶ商品に栗やかぼちゃ、さつま芋を使ったものが増えていた。秋の知らせはそれくらいで、日中は夏のように暑くなる日だってあるのだ。


「今時の子供ってのは、なに、大袈裟だねえ」


 老婆はまるで悪態をつくように、低いしゃがれ声を漏らした。立ち上がり、台所へ消えた。

 少女は男を見た。男は首をかしげる。

 老婆が戻ってくると、手に持った盆には山盛りの柿がのせられていた。

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