向こう岸から


「なんだか疲れているみたいね」


 女が心配する素振りをみせた。少し笑っているようだと男は思った。鞄を受け取ろうとする手を無視して部屋に入った。


「なあ、なにがおかしい?」


 男の声は質量をともなっているかのように沈み、二人の間の空間に堆積していく。次第に硬化し、壁になっていく。いつか視界を遮り、声すら届かないくらいに積もっていくのだ。そのはじまりに過ぎなかった。


「え?」


 男はパソコンの入った鞄を乱暴に椅子に置いた。テーブルの縁にぶつかり、からの一輪挿しが揺れた。花があった方が気分が安らぐと言ったのは男だった。一緒に暮らし始めて数年間は飾っていた。週末に花を買う習慣だったはずが、一度忘れた。それ以来、男は花を買っていなかった。

 早く終わりにしたい。

 課題を終えるとすぐ先に次の課題が待っている。逃げ出したいのに逃げ場がない。終わりの見えない繰り返しにいつかなにげなく静かな終わりが訪れることを恐れた。死刑執行人はどこだと首を振って探してみても、気配すら感じる間も無くすぐに奪い去ってしまう。

 意味があるのだろうか。

 西の空、まだ赤い窓の外の三日月を眺めやる。描いた弧からゆっくりと蜜を流すように光が垂れている。男の求めているものはない。


「なあ、今、笑っただろう」


「ごめんなさい。そんなつもりは」




 よく笑う少女だった。

 夏の大会で引退のはずが、思っていたよりも伸びてしまった。予想外に県大会を突破し、全国大会も一回戦を突破すると、県内県外の強豪私立から推薦がいくつも舞い込んだ。三回戦で敗退したが、推薦はあっさり決まった。特待生。県外の高校で寮生活。

 距離が開くとすぐに疎遠になった。


「アハハ、待ってろって言ったのそっちじゃん」


「いや、忘れられないとか、そういうんじゃなくて」


 同級生との飲み会で、ふと漏らした。誰もが身を削り、すり減っているように見えた。明るい話題は、過去の輝かしい一瞬だけ。彼らと男とが青春と呼ぶ時間だけがなにもかもを輝きに変える力を持っている。しかも、振り返ったときにだけ、だ。暗闇から覗き込むのでなければ、その明るさを感じることは難しいらしい。

 枝豆の塩気が少し足りないと思いながらも手がとまらない。仕事をだらだらと続けてしまうことと同じだ。ビールをあおることを繰り返すのも、妻との会話に苛立つのも、苛立ちながらも床を共にするのも、同じだ。何も変わらないし、何も変えられない。

 ミサンガは自然に切れたのではなく、自分で切った。男の望むものは何一つとして叶わなかった。叶えられないとわかったからこそ、望むことをやめる決意として、自分の手で切ったのだ。

 本当に、よく笑う少女だった。


「初恋は特別だって、ゲーテが言ってるよ」


「ふーん。でも別に、初恋ってんじゃないけどな」


「じゃあ、どうしてそんなに後悔してるんだよ」


 高校では三年間ベンチを温め続けた。一年で登録メンバーに唯一選ばれたにもかかわらず、出場機会は訪れなかった。二年になると、途中出場で使われた。三年になると、もはや義理で出させてもらっているような気がして、引退をまえに耐えられなくて退部した。

 高校の三年間は一瞬にして過ぎていき、残ったのは後悔だけだった。見栄などはらずに素直に思いを伝えていれば、なにか変わっていたのだろうか。


「たださ、思うんだよ。もしあの時の、あのゴールが決まっていなかったらさ、今とは何かが違っていたのかもしれないって」


 同級生はジョッキを持ち上げてから、それがからであることに気がついた。苛立たしげにコースターの上におろすと、ごつんと鈍い音が鳴った。手をあげ、店員を読んでから彼は言った。


「いや。……きっと、なにも変わんないよ」

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