秘密と悪を覗き見る

「ここだけの秘密だけど」


 ――ここ、ってどこまでがなの?


 ここの範囲が際限なくひろがりをもつ青年の秘密は、本来それが持つべき性質をもたない。公然の秘密とでもいえばいいか、あるいは、はっきりと周知の事実といってしまおうか。ここだけの秘密だけど、という枕詞に続く言葉はどれも新鮮さに欠ける。空気の抜けたボールを蹴る時の、足の甲に深くめりこむような感覚に似ている。物足りない。反発が足りない。プールの水面を走ろうとこころみた幼少期の自らの愚かさを思い出した。


「俺さ、留学することにした」


 ――そもそも秘密にするようなことじゃないでしょう。


 学食は空いていた。三年、四年の集まるキャンパスでは、午前の早い時間に通学しているものは少ない。午前の授業をとるのは一、二年で単位を取り損ねた者だけだ。朝から研究棟にこもったり、前日から泊まり込んだりする一部の四年や院生と合わせても、大した数にはならなかった。


「どこに?」「はい、唐揚げ丼ね。そっちのお兄ちゃんは、なんだっけ?」「おばちゃん、ありがとー」「蕎麦です」「イギリスだよ」「お前ん家って、金持ちなの?」「そうでもないけど、留学させてもらえる程度には金はあるみたいだよ」「それを金持ちって言うんだよ」「はい、蕎麦ね。お待たせしました」


 静かだ。学食の喧騒こそが心を落ち着かせてくれる。青年が無邪気にという言葉にどきどきしている様子を見ると、壊したくなる。少女が持っていないものを、彼はたくさん持っているのだ。




「なにその絵具。みんなのと違うじゃん」「そうだよ。いけないんだー」「これ、アクリル絵の具ね。どうしたの」「お、お兄ちゃんのやつを持って来た」「ずるいよー。大人が使うやつだろ」「そうだよ。ずるいよ。そうやってみんなよりうまく描こうとしたんだ」「絵具が変わったからって、うまく描けるわけじゃないけど……今日は先生のを使って描いてね」


「お兄ちゃんのがあるんだから。それを使いなさい」


 子供部屋と呼ばれる部屋をふたりで使っていた。小学六年生ともなれば、年頃の女の子といってもおかしくない。部屋は、兄の脱ぎ捨てた服と、コンビニで買った弁当のゴミでいっぱいだった。少年雑誌や週刊誌、開かれたアダルト雑誌。子供の教育上不適切という言葉が、適切だった。

 この荒れた部屋のどこに絵の具セットがあると言うのだ。探した。そうして見つけたアクリル絵の具は結局、授業では使わせてはもらえなかった。




「だから、お前ってちょっと男みたいなの?」


「そうかもね。で、お前は女みたいだよな」


「うち、女家系だから」


 散らかった部屋のなかで唯一、万年床の枕もとだけが整然としていた。そこには、ノートほどの大きさの箱があった。錠付きで、無理に開ければすぐに知れる。鍵は兄が常に持ち歩いている。ある時、その兄が一瞬の隙を見せた。煙草を買いに出た時、鍵を持って行かなかった。どのくらいの時間で帰ってくるのかはわかる。限られた時間で、十分に中を覗き見ることはできるのだ。

 兄の秘密を握れば、兄よりも優位に立てると思った。幼いからこその甘い考えだったと知った。おぞましい秘密、腐り切った秘密というものが、人間には芽生えうるのだ。後悔してもしきれなかった。


「でも俺、好きになるのは女だけだよ。男を好きになったことはまだないな」


「あんたさ、不用意にそういうことを口にしない方がいいと思うよ」


「ああ、そうだな。ごめんごめん」



 この世にありうる最悪の事物を詰め込めば、その箱ができる。嫌悪感という感情では表現できないほどの吐き気と恐怖が、心が痙攣するかのように交互に震えるように訪れた。

 すぐに蓋をし、鍵で閉じた。封じたまま忘れてしまうしか、なかったことにはできない。いや、なかったことにはできない。その頃、少女は最短で家を出る手段を考え始めた。

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