言葉に埋まる
「しばらく距離をとりたいの」
「ああ、わかった」
――わかったって、なにがわかったの?
女は自分で別れを切り出したのに、男の淡白な対応が気に食わなかった。長年ともに過ごした関係がこれほど簡単に終わってしまうのか。
平日午前の図書館は空席が目立った。女は表面の汚れをぬぐいとり、はがれかけたテープを貼り直した。
――これだから文庫本って。
文庫本は傷みやすいため、補修しても処分までの寿命が短い。長くたくさんの人に読んでもらうための本ではなく、読み捨てられるための本と言っていい。買われるならまだしも、借りられるならなおさらだ。
どんなパートも続かなかった。小さな職場では密な人間関係に窒息しそうになり、大きな職場では必ずそりの合わない人が現れ、かつ、疎まれた。学食の厨房で働いていた時も、お喋り好きの娘の自慢ばかりする同僚と働くのがいつしか億劫になり、逃げてしまった。気を遣う。合わせる。摩耗しやすい。擦れやすい。濡れや折れに弱い。この年になってもなお、女は自分の身と心の守り方がよくわからない。
パソコンの蔵書データの検索結果から、該当した書籍を探しに行く。蔵書数は五万に満たないほどの小さな図書館だからといって、図書分類と書架の配置があるていど頭の地図に描かれていないと時間がかかる。慣れと経験がものをいう仕事なのだ。
「あら、はやかったわね」「え」「はじめはもっと時間が掛かるものなの」「いや、とんでもないです」「本当に、すごいわよ。ありがとう」「いえ、そんな」
――こんなの、誰にだってできるじゃん。
「おたがい大人だから、そういう面倒はなしにしよう。その気がないなら、それでおしまいでいいだろう」「ええ、そうかもね」「じゃあ、最後は笑って」「ええ」
さしだされた手を握り締めた。何度も触れたことのある手は、今日だけとくべつ熱をおびている気がした。
関係性に執着がないと思っていた。執着を持つことが怖いだけだと気づいて、自分で少し情けなくなった。勇気を出して、本当は一緒にいたいとでも言ってみれば、今は少し違った景色が見れたのだろうか。きっと大差はない。と思うから、身動きが取れないのだろう。女は我ながら思い、自分の愚かさを笑いたくなった。
「すみません、これ、どこに戻せば良いのかわかんなくなっちゃって」
「あ、はい。こちらで戻しておきますので、大丈夫ですよ」
同世代だろうか。平日の昼間に図書館でなにをしているのだろうか。と、そんな考えは大きなお世話だろうと反省し、女はまたリストの本を探す。
初めて半年以上続いたパートは、すでにマンネリ化を始めていた。流れるような習慣に身をゆだねてみるのも悪くない、そう思えたのも初めてだった。必要な作業の繰り返しの一部になった自分はいつか、記述されたプログラムのような単なる記号と化していく。熱を次第に失い、生物としての機能は損なわれて、機械的な行動規範だけが呼吸を続ける。物語はない。ただ、図書館の片隅におさまる、図書館について綴られた本になる。
女は働きながら夢想した。蔵書は少しずつ増え、少しずつ減る。新陳代謝を続ける大きな箱のなかで動き回る単細胞生物。記号の配列に従って機械的に動く快感におぼれ、些末なことはなにもかも忘れて循環のひとつになる。本になる。本のなかの物語には無数の苦痛と快楽が満ちているのに、本そのものは静かに佇んでいるだけだから。
感情を忘れて、人の手の熱だけは忘れられない愚かさを笑うことも、もうないのかもしれない。
女は同じ夢想の手触りが日によって違うことを楽しむくらいに、図書館の静寂に似たマンネリを愛し始めていた。
「ごめんなさい。これもわからなくなっちゃって」
――またか。
「はい。大丈夫です。では、こちらも戻しておきますね」
さしだされた本を受けとった。何度も読んだことのある本だった。もう一度、読んでみようかと思った。
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