重なり合わさり別れて散る
朝の満員電車は思いのほか静かだった。
「おはよう」
「あー、おはよう」
イヤホンを外してみて少女ははじめて知った。
静寂のなかで人の気配だけがうるさいくらいに際立っている。咳払い、靴音、かすかな衣擦れすら耳をくすぐるように聞こえる。呼吸や鼓動は聞こえるわけではないが、固有のリズムがうまく重なることができず、でたらめな音楽を耐えず生み出している気がする。なにより熱が、否が応でも触れ合う人の体温が、無関係で無関心でありたいはずの他者の存在を、不可避的に意識させた。
隣の背の高い少女を見た。
腰のあたりでくるくると折られた膝上丈の短いスカート。下からは小麦色の足が覗いている。肩よりも少しだけ長い髪は微かに明るく、内側だけ金色に近い色だ。着崩したブレザーの様子からして、彼女がすでに学校に適応しているのがわかった。
ガラスに映る自分の姿を見た。
膝下の長いスカートの下にはハイソックス。黒い髪を後ろで束ね、学校で指定された通りにセーラー服を着ている。頭一つ分、隣の少女より背が低い。
「どう、学校は」
背の高い少女の声が静寂のなかでやけに高く聞こえた。同じクラス、同じ部活だったというのに、中学の頃は数えるほどしか話さなかった。それが今、こうして二人で並んで立っている。
「うん、まあまあかな」
少女が答えた。背の高い少女が「ふーん」と応じ、会話は終わった。静かな車内で会話するのは憚られた。それを言い訳にして話さなかった。だから、いくらか気が楽なのかもしれない。
特に約束して同じ時間の同じ車両、同じドアから乗っていたわけではなく、たまたま互いが選んだのがそれだった。
背の高い少女は数駅で降り、朝練に行く。高校でも陸上を続けているのだという。一方で少女は都内の私立の進学校に入った。普通に登校するだけでも、朝練に行く彼女と同じ時間の電車になる。
偶然が作り出した束の間の関係だった。実際、ふたりは直接連絡を取り合うようなことは一度もなかった。
背の高い少女はスマホを見ていた。少女も制服のポケットからスマホを取り出し、タイムラインに流れてくる無数の写真を見るでもなくただスライドしていく。興味があるかどうかもわからない。キラキラした写真や動画の数々は、時間を埋めるには都合がよかった。
電車の窓を雨が濡らす。しずくは透明な表面を斜めに流れてまっすぐに線を引く。全体は決まった方向に流れていくものの、雨粒の大小や電車の速度によって微妙に角度に差異が生まれ、ぶつかり、合流していく。ひとりでいたなら窓に描かれる幾何学模様に気づくこともなかったのかも知れない、と少女はふと思った。
「部活、雨でもあるんだ?」
スマホからちらと視線を外し、彼女はこちらを見た。アイラインがしっかり入り、つけまつげまでしている。
「筋トレ」
香水のにおいがする。
中学の最後の県大会で優勝し、陸上の強豪校からのスカウトがいくつも届いていたと聞いた。すべて蹴り、電車で数駅の公立高校に一般入試で進学した。当時、顧問がそのことを嘆いていたのをよく覚えている。
彼女は髪をかきあげた。銀色に光るなにかが見えた。
「ピアス、あけたの?」
「そ。良いっしょ」
彼女が指先で触れると、ちりんと音が鳴った。
中学生の頃と比べると線が細く、引き締まったというより痩せたように見えた。
当時の同級生が見たなら、綺麗になったという人もいるかもしれない。
少女は去年の夏の彼女を今に重ねて見ていた。筋肉質で野生味の感じられる彼女の美しさは損なわれた。今は今で、井戸の底に映る満月のような冷ややかな美しさがある気がする。
「学校、楽しい?」
今度は少女が尋ねた。
彼女は答えず、苦笑した。
いじらしく感じられた。速くて、強くて、美しかった過去の姿はそこにはなかった。なにが彼女を変えたのか、少女は知らない。だが、そうしたなにかがいずれ自分にも訪れる予感だけはあった。怖くもあり、楽しみでもある。
電車は川を渡るひとつ手前の駅で止まった。
「まあ、なんとかやってるよ。じゃ、またね」
背の高い少女は電車を降りた。
スカートの下から細い足が覗く。鹿のようにしなやかだった曲線は、退屈な直線に変わった。無骨な膝の傷跡だけがあの頃と変わらない。
電車は川を越えた。少女はイヤホンをつけ、音楽を再生した。
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