ラムネのビー玉と赤い血


「珍しいよな」


 男が話しかけるのは、小さな観葉植物だ。シェフレラには名前がある。シェフィ。安直だと思ったが、誰に教えるでもない、ふたりのあいだだけで通じる秘密の名だから十分だ。


「三十八だってさ。パートじゃなくって、正社員なんだよ。旦那さんが仕事を辞めちゃったんだってさ。大変だよな」


 レジに並ぶ人を巧みにコントロールするには、いくつ、誰を稼働させるかによる。微妙なバランスを理解していないと、レジ打ちの手が空いてしまうか、客を長く待たせることになる。

 男は去年導入したセルフレジに少し物足りなさを感じていた。

 徹底的に効率化され、不確実なことがらが減っていく。完璧な予測すらも必要としないくらい、淡白に、機械的に物事が進められる。ほとんどの客が自ら精算することをもはや苦にしない。こうして何もかもが単純化、機械化、自動化され、未来がひとつの形にあらかじめ収束してしまう。


 ――だけど、人の手でしかできないことが、あるってもんだろ。


 と思いながらも、人の手でしかできないことがなんなのか、男にはわからなかった。

 工学部情報工学科コンピュータサイエンスコースを卒業し、スーパーで働いている。名の知れた大学で、研究レベルは国内屈指、知識や能力も同級生に引けを取らなかった。

 問題は、大学四年の卒業研究だった。長い時間をかけて作り上げたAIが差別的な発言を繰り返したためSNSで徹底的に叩かれ、学内で問題が取り沙汰され、退学処分は免れたものの、研究の停止を命じられた。当然新しい研究が三月に間に合う訳がなく、卒業できないことが決まった。

 男は情熱を失った。


「どんな植物をお探しですか?」


 女はどこか、昔あった少女に似ていた。小学四年の夏休みに引っ越した。商店街の夏祭り、母から貰った小遣いで、彼女のぶんのラムネも買ったのだ。名前も覚えていない。女を見たとき、懐かしさだけがただ漠然と湧いた。買うつもりのなかったシェフレラを買ってしまったのも、少女に似ているせいだと思った。


「シェフィ、シェフレラをもう一鉢、買おうかと」


 駐輪場にとめてあった自転車の前後に座った。少女の自転車で、男は後ろの荷台に座った。

 最後の夏、その年齢には珍しく、少女はママチャリに乗っていた。サドルから地面に足が届かないので、フレームをまたぐかたちでこぎ始めるか、スタンドを立てた状態で勢いよく体重を前に移動させてこぎ始める。最初が肝心だった。

 こぎ続けなければ倒れてしまう。ふたりはスタンドをロックし、自転車を椅子がわりにして一緒に座った。


「せっかくなら別のものはいかかですか。モンステラとか、個性があって面白いですよ」


 二鉢目のシェフレラか、あるいはパキラかピレアを買おうと思っていた男にとっては、モンステラはまた違った角度からのアプローチだった。予想していなかった。

 大きな緑色の葉には、いくつもの切れ目が入っている。表面に白い斑が脈のように走り、切れ目と相俟って複雑な分岐を描き出していた。男は葉に触れる。冷たい。中を水が通っているのだと思った。


「ねえ、飲めば」


 少女がふりかえってラムネをさしだし、少年だった男が受けとろうとした途端、前輪のハンドルが横にぐるりと回り、自転車が倒れた。

 ラムネの瓶が割れ、破片が飛び散った。頭の部分だけは綺麗に残り、青いビー玉が光っていた。手から赤い血があふれた。鮮烈だった。

 女はおくから鉢をひとつ出すと、大きなテーブルのうえに乗せ、霧吹きで水をかけてから葉を拭いた。深い緑と斑の白のコントラストが深まり、照明を反射した。


「これ、この斑が珍しいんですよ」


 女が振り返った。

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