追いかけても追いかけてもつかまらないとどかない

「お金で悲しみが軽くなるんなら安いもんだよね。贅沢も悪くない」


 ――それって、お金持ってる人が言う言葉だよ。


 子供がいなくてよかった。子供がいなければ、みじめな思いをすることもないし、お金もかからないし、亡くしたりもしない。安全だから。そもそも、この男の子供を産みたいなんて、おかしい。

 女は目の前の男が自分の夫だということをほとんど忘れていた。

 ティーシャツをまくりあげて扇風機の風にあたりながら、腹をぼりぼりと掻いている。これが本当に、人間なのだろうか。いや、獣だ。犬や猫であれば可愛がりようがあるものの、半端に毛むくじゃらでヒトらしい形を残しているため、余計に醜悪さが増している。意思らしきものをいくらか備えていることも、むしろ腹立たしい。


 ——どうして、こんな男と。


 後悔したところで、あの時に戻って「いいえ」答えることなど、もうできない。不条理の大部分は詰まるところ、過去が変えられないことにあるのだろう、と女はらしからぬ思いに耽り、苦笑した。

 汚れた食器を洗い、水切りに並べた。リビングのテーブルにはまだ一枚、皿が残っている。どうせ洗ってなどくれないのだ。



「結婚、してくれませんか」


 手が震えていた。差し出された指輪はあまりに小さく、中指でも入らなかった。女は恥ずかしくてたまらなくなって駆けだした。男は追いかけた。海の近くで腕をつかまれ、ふりかえると、涙と鼻水でよごれた男の顔があった。


 ――まあ、これも悪くないか。


 みじめで、みっともなくて、情けないが、優しい男だと思った。誰かに似ていると思ったが、誰に似ているかは思い出せなかった。



「お父さんのこともあったし、少しはお酒、控えなさいよ」


 近所に住む母はいつも同じことしか言わない。夫と同じだ。

 女は時々実家に帰り――といっても歩いて五分程度だが――母の小言を聞いた。同時に、夫の愚痴も存分に吐きだした。

 貧乏暇なし。夫の稼ぎだけで生活できないわけではないが、満足いく暮らしはできないのも事実だ。そんな話をすれば母の支援が得られると思ったが、そうは問屋が卸さない。彼女の思惑は外れる。父に財産などなかった。父になければ、母にもない。二人はふたりでひとつ、死んだからって変わらない。だから母は、死んだような顔をしている。


 ――だけど、私は。余った私はどうすれば良かったのだろう。


 ババ抜きだ。最後にジョーカーが余ってしまう。どこにいっても、なにをしていても、自分がどこからかはみ出してしまうことに気づいたのは、何歳のころだっただろう。

 女は誰かのふりをした。誰かのふりをすることでしか、誰かに認めてもらえないと思っていた。

 初めてわけもわからず受け入れてくれたのが、この、目の前で腹をぼりぼりと掻くだらしない男だった。この男だけだった。これが、本当に人間なのだろうか。


「夫なんてさ、狸の置物だと思っておけばいいのよ」


「狸の置物?」


 ――それはきっと、あなただってからっぽな狸の置物だからでしょ。


 友人と呼べるほどの人もいない。カランと音がした。なにかが壊れた。

 女は、初めて生きる意味がわからなくなった。誰かのためのなにかであることに、疲れ切っていた。自分が自分でいることを認めてくれたと思った男も、自分の思い通りになる女だと思っただけだったのだ。

 中心を探しているのに、歩いているのは、常にその縁で、ぐるぐると同じ場所を周り続けている。

 馬鹿らしい。皿を洗う手を止めた。意味などない。自分をつかまえたと思った瞬間から、自分は遠ざかっていった。今どこにそれがあるのか、女にはわからない。ただ、ここにだけはないと知った。


「紙きれ一枚で終わりか」


 女は言った。夫が珍しく振り返った。


「え、なんか言った?」


 声は届かなかった。

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