月日

「いらっしゃい」


 平日の午前中は閑散としていて、商店街を歩くのは年寄りか小さな子連れくらい。昔のような賑わいはない。朝晩の通勤や帰宅時間の目まぐるしい喧騒とくらべると、なんてゆっくりと時間が動いているのだろうと男は思う。

 主婦らしき女性が店先でポン、ポンとカボチャを叩いている。水を多く含み、熟しきっていないものはつまった音がする。完熟したものは高く、空っぽな音だ。彼女に一度、そう教えてやったことがあった。子供を連れていることが多かったが、今は一人だった。学校だろうか。時が速い。

 母が店に立たなくなったことをきっかけに、介護の勉強を始めた。要支援、要介護、六十五歳未満の特定疾病、学べば学ぶほどに知識が頭を重くし、いつしか頭痛を感じない日は珍しくなった。

 男を陰鬱な気分にさせるのは、リウマチやALS、アルツハイマー、レビー小体という現実にはどうにもなじまない異質な言葉たちだった。1型糖尿病は膵臓のβ細胞が破壊されることで引き起こされると知ったところで、男の血圧があがったり、血糖値やコレステロール値があがったりはしないはずなのに、なにか胸につかえるような感覚があった。勉強しても記憶が増えたように感じられない。積み重ねが少しもない。穴のあいたバケツで水を汲んでいるような徒労に思えてくる。だが、知識は着実に増えているはずだった。


 ――おれがなにをしたっていうんだ?




「ねえ、一度セミナーに来てみない?」


 常連客の一人に勧められ、と呼ばれている集会に参加することになった。どんな会なのかもよく知らなかった。断るのが面倒だったのだ。

 会場を埋め尽くす人々の表情はどこか冴えなかった。そこに紛れ込んでも違和感を覚えないことこそ、男が違和感を覚えた点だった。

 世界のあらゆる不幸をその顔に塗りたくったかのような暗い表情の数々。自分はそこに見事に馴染んでいる。


「……失礼」


 耐えきれずにすぐに席を立った。吐き気を覚え、すぐさまトイレに駆けこんだ。かすかに黄ばんだ透明な液体を吐きだした。

 希望などどこにもないのだと諦めることもできずに、ゆるがせに歩みを進めてきた。

 鏡のまえに立つ男は、会場の参加者にそっくりな顔をしている。シャツはしわだらけだ。ベルトをするのを忘れていた。当然ネクタイなどしてきているわけがない。ジャケットは暑いから置いてきた。もともと外出する時くらいしか着ていなかったためか、自分で管理したことなど一度もなかった。世話をしてくれる人がいなくなったというそれだけのことで、自分の生活が容易く崩れてしまう。男は、脆く、愚かで、弱い。

 妻を失ってから気づくまでにどれだけの時間を要したのだろう、と男は思った。




 火曜の夜に店じまいを終え、今年で九十になる母と向き合う。


「なんだ、だらしない」


 老婆はいまだ矍鑠とし、介護の勉強などしばらく役立ちそうにはなかった。妻の真似をしたつもりなどなかった。母を気遣ったが故に、将来を見越して勉強しているつもりでいた。勉強が空白を埋めるわけなどないのに、学ぶことで暇だけは簡単に埋められることがわかった。


「なにがだよ」


 ――言われなくてもわかってる。


 最初の年、人が心配して声を掛けてきた。奇妙だった。受け入れる、乗り越える、という言葉はただの言葉で、関係のないことに思えた。

 二年、三年と経つうち、ようやく妻がいないことに気づき始めた。なにが癒しになるのかわからない。希望だってない。数年後にはおそらく、老々介護が待っている。家族がふたりきりというのもつらいはずなのに、立ち直り始めている。


「あはは」


 男は不意におかしくなって笑った。一瞬、母は驚いたような表情を浮かべてから、おもむろに微笑した。


「まったく、のろまな息子だよ」


 母が呟いた。

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