悪と欲

 鏡の中の少女は不満げに一点を睨みつけた。こめかみに近い頬のあたりに赤いふくらみがあった。

 甘い食べ物。動画。夜ふかし。

 だらだらと動画を見ていると気づけば十二時をまわり、空腹でもないのに近くのチョコレートに手が伸びる。甘いジュースを一口飲んで喉の渇きを潤す。画面の向こうで踊るアイドルのアップが映ると、静かに目が冴える。夜が色めきだち、再び手が自然とチョコレートに伸びる。


 生活が乱れていた。


 夏に部活は引退し、受験は秋に推薦で終わった。

 周囲があわただしく動く中で、自分だけが時間を持て余した。お小遣いだけでは欲しいものが買えない、自由な時間が増えたのに友達と遊べない。両親に相談してアルバイトの許可をもらった。

 そうしてはじめた仕事は単純だが楽ではなかった。

 人が人に抱く不快感、つまりは悪に蓋をし、封じる仕事。少女はそう説明を受け、実際に業務を行なってみると、なるほどと頷いた。

 デジタルコンテンツ、主に小説やエッセイの内容を確認し、規約に違反しているものをバンする。コミュニティの秩序を維持する監視業務だ。


 父の紹介ということもあり、高校生にしては抜群に時給が高かった。

 少女はお金がいざ手に入るようになると、欲しいものを買った。洋服。バッグ。アクセサリー。外食して、スイーツも食べて、家でもお菓子を食べる。動画で見たコスメを通販で即買い、友達にすすめられた漫画を買って、暇な時間に部屋で寝転び読み耽った。

 は簡単に手に入るのだ、と少女は思った。

 鏡の中の膨れた一点に指先で触れた。痛い。膿が溜まっている。母に相談しても、若いのだからすぐに治るといって笑うだけだ。不摂生ゆえに顔にできた異物。隠れた欲が中で膨らみ、破裂しそうだ。

 外に出るのが憂鬱だった。

 スマホのブックマークから勤怠連絡フォームに飛び、情報を入力した。


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 種別:欠勤

 理由:体調不良

 備考:今日、明日はお休みさせていただきます。

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 誰かの欲が、誰かの悪であることを知った。誰かの心にすっぽりおさまるものが、誰かにとって余分なものだと知った。とりわけ性的倒錯に重点を置いた作品は、欲と悪が表裏一体であることを少女によく教えた。

 フィクションであっても、法の枠組みから外れるような内容を描いた作品は規約によって禁じられている。ユーザーが目にする前に、少女や仕事仲間が一つひとつ潰していく。

 悪はPVが伸びやすい。人が求めてはいるが表には出せない、後ろめたいと感じるものこそが悪だ。欲と悪は人から見えない深いところで同じ根で繋がっている。

 少女は自分に仕事への適性を認めた。

 公然と語れる自分の欲と、秘匿されるデジタルコンテンツの孕む悪とに、特別な差異を見いださなかった。 

 悪と欲のあらゆる形態を多様性という一点においてのみ平等かつ均一なものとして捉える能力がある、と少女は自負していた。

 常識や非常識というずれではなく、完全なフラットな視点から見る世界にあるのは、欲の、あるいは悪の、果てしなき探究だけ。少女にとっては自分の凡庸な欲とは異なる形の欲をコンテンツの中に見出すことが新鮮で、刺激的で、喜びだった。雑多な色の重なりと散らばりは本来の生物的な欲望からはかけ離れているように感じられた。言葉と言葉のつらなりはより複雑な意味の可能性に向かって不可逆的に進む。ある未来にとっての過去は、そうでなければならなかった一点に収束する。過去のありうる未来の形は一つである必要はない。過去は必ず一点に収束するために因果が生まれる。欲望と不快感の不均衡が人の心に時間をつくりだす。どこかで読んだか聞いたかしたエントロピーの話を思い出した。


「簡単に休めるの、めっちゃうらやましいよ」


「そうかな。別に、簡単に休めるわけじゃないけどな」


 休むと決めたはずなのに、曖昧な感覚が少女をとらえて放さなかった。

 少女はふと博物館を思い浮かべた。欲望の博物館。そして、悪の博物館。時代も場所も異なるあらゆるものが平等に並べられ、どれも均一な質感で見るものの好きや嫌いとは無関係に特定の属性を主張している。恐竜の化石のレプリカのなめらかな骨のうえを滑るように視線をうつろわせて遡る先端には触れることのできない遠い過去がある。

 自分がいる世界とは違う、どこか知らない、遠い世界でのお話。悪が蓄積して溜まっていく。地中深くで、純化していく。


「ほら、触らないほうがいいって。悪化するよ」


「ああごめん。わかってるんだけどね……」


 不思議と気分が重い。学校には登校しながらも、バイトは休む。父にも悪い気がした。

 少女の友人もまた、受験を終えて暇を持て余してバイトをはじめたうちのひとりだった。授業はまだある。登校日数を減らすクラスメイトも少なくなかった。彼らは予備校で過ごす時間が長い。受験の背後にどのような欲が隠されているのだろうと考えてみる。有名校のブランド。就職に有利。将来の夢を追う。バイトで見るような単純な欲ではなく、重層的に複雑に絡んだ欲の背後には、きっと小説に見るのと同じような悪が隠されている。


「私たちの勉強の意味っていったいなんだったんだろうね」


「なに、いきなり。推薦で受かったんだからそれで良いじゃん。うちもあんたもそこそこいい大学に合格したんだし。そこで彼氏作って、卒業して就職して、何年かしたら結婚して。勝ち組コースには乗れてるだろうよ」


「それが勉強した意味だったの?」


「さあ、そうじゃない?」


 マスクの縁が膨らんだ突起の先に触れた。ひりひりと暑い。触れるべきではないとわかりながらも、手が伸びる。触れるとかすかに痛みがあった。欲はからだの内で膨らみ、いずれ破裂し、血と膿で肌を汚す。

 知っていた。チョコレートは少女を誘惑する。子供じみた欲。人に言えないほどの秘密ですらなく、ありふれていて、誰もが現実として受け入れるしかない平凡な欲だ。

 性欲は秘すべき欲で、食欲は剥き出しにしてもよい欲。前者は隠匿性が付随しているというだけの理由で悪に属する。差異を受け入れることで人が公平・平等になれるならば、すべてを透明性のもとに健全な欲に帰するしかないのではないか。


「私たちってどうして大学に行きたいんだろうね」


「別に、うちは行きたくはないけど。親が行けっていうから行くだけ。卒業すれば自由だから、それまでの辛抱だって思ってるけど」


 色づいたメタセコイアの葉が窓からの視界に蓋をしていた。細い枝に雀がおり、葉が落ちた。

 ノートに記す言葉は自分の欲とは無関係で、また、悪とも無関係で、無機質な宝石のように静かに輝いているような気がした。学術的な言葉は、それ以上の意味を持つことは許されない。幅のない意味、制約された堅固な要塞には悪の付け入る隙はないらしく、同じように、欲ですらも踏み込めない。好奇心が作り上げた知の蓄積は、所詮は欲の結果に過ぎないのではないか。なぜ、これほどまでに透明に感じられるのか、少女にはまだわからなかった。


「うちはね、学校ってのが大っ嫌いなの。押し付けばかり。もっともっと自由に生きたいから、そのためにそれまで我慢するだけ。うちにとっては大学ってそういうもの」


 出席している生徒は少ない。教師はなおざりの授業を続ける。主席しているのは進路が決まった者だけで、学ぶを誰も持たなかった。


「学年一位のくせに、よく言うよ」


「あはは。言ったでしょ、うちは学校が嫌いなだけ。勉強は好きなんだ。だから余計に学校が嫌い。好きなんだから、教えてもらわなくったって強制されなくったってやりたくなるんだっての」


「ふーん。変人」


「あんただって、何度も学年五位以内には入ってたじゃない。人のこと言えないでしょ」


「まあね」


 少女は目の前の彼女の純粋な瞳に、悪に似た美しさを見た気がした。

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