あのときといまときみと「君」と
透明な青い瓶は夜に似ている。蛍光灯の冷たい光を、小さな泡が刹那的に反射しては、弾けて消える。夜は頼りない。
「ホントに殺されるかと思ったんだもん」
男はオレンジジュースを片手に、微炭酸の日本酒を瓶のまま飲む女を見ていた。良い飲みっぷりだと思う。
夜に不安を感じる女と、夜になると頭が冴えてくる男とでは、相性が良いのかもしれない。
秋になって次第に純度が増していた。夏の蝉の声に曇った夜とは違う。鈴虫の声は夜の邪魔をしない。晩夏を過ぎた途端に、虫の声は消える。秋の夜はいつでも、どこまでも透明だった。
「安全第一だね。向こうの人には迷惑かけたけど。まあ仕方ないよ」
夜道で人にあとをつけられている。女からの連絡があった時には信じた。女の不安がつくりだした人影だと考えることもできるが、わざわざ連絡してきた。緊急だと思った。警察に通報したのは結果的に大袈裟だったかもしれないが、物理的にすぐに帰ることはできなかったのだから、他になす術はなかった。
「うん、反省してる。しかも、ご近所さんとはね」
冷凍の唐揚げをレンジで温め、枝豆は水で戻した。ざるで水を切って、温めおわった唐揚げと一緒の皿に乗せ、テーブルへと運ぶ。
女はうんと頷いた。ありがとう、という意味だ。電気を消したままのこたつにこもり、自らの身を守っている。温もりは女を慰め、束の間の安らぎを与える。男は懇ろに世話をする。女の不安の強い夜、男は親身になって寄り添う。無力を知っていた。
「仕事、どうだった?」
男もこたつに入った。
両肘をついて、手の上にあごを乗せ、正面から女の顔を覗き込んだ。女はまじまじと見られて面映ゆく思ったのか、視線をそらした。
「いつも通りだよ。すっごく疲れた」
女はわかりやすくため息をついた。その長い吐息に、女の心の安らぎを感じた。男にとっては贖いだった。罪はいっそう透明に夜に青く溶けて、くりかえし泡となって弾けとぶ。忘却が再び罪を生む。さらに頭は冴えわたる。男は思考が強いる苦悩に意味を、救いを見出す。だから、女と一緒にいるのだ。
「ハハ。お疲れ様」
――許せない。許せない。許してはいけない。でも、誰をだろうか?
夜がふけ、女は心地よさそうにこたつで眠った。それでいい、と男は思った。
「ねえ、怖い。電話してもらっていい?」
「大袈裟だなあ。大丈夫だよ。今日は早めに帰るから」
男は、心配していないわけではなかった。ただ、すこし大袈裟だと思っただけだった。残業はしなかったし、いつもより一時間以上早く帰った。
帰路、景色が違って見えるのが不思議だった。同じ道なのに、時間が違うだけで同じには見えなかった。なんとなく新鮮な気持ちで歩いた。塾のバッグを背負った小学生が信号に向かって駆けていた。男の子がふたりと、女の子がひとり。クラスメイトだろう。まだ子供が外を出歩く時間だ。
大丈夫だろうと、男はどこか高を括っていたのだろう。帰宅した瞬間、手足の力が抜けるほど、血の気が引くのがわかった。家具や衣服が荒らされた薄暗い部屋に、衣服の乱れた女が横たわっていた。腕や脚に鮮やかな赤のあざがいくつもできていた。にわかに後悔が男を苛んだ。
「……どうした。なにがあったんだ?」
「ごめんなさい。ごめんなさい」
男が彼女のことを聞いたのは、別れてから三年ほど経ってからだった。そもそも共通の友達も少なく、繋がりも薄かった。以後の彼女のことを知る術などなかった。そうして自分を納得させた。
本当はただ、知るのが怖かったのだ。後悔に押しつぶされないために、原因から距離を取った。苦悩の種があるところに贖いがあるとも知らず、遠ざけた。男は自ら救いから遠ざかったのに、罪は男を捕らえて放さなかった。
「自殺だってさ」
「そっか」
苗字は違った。従姉妹の話なんて普通しない。その頃は関係もまだ微妙だった。男は、どこまで踏み込んでいいのかわからなかった。それでも、踏み込むことを決めたのは、男のエゴだ。罪だけを抱えて生きていた男のもとに、救いの機会が舞い戻ってきたのだと思った。
面影はあった。血は遠い。姉妹ならまだしも、従姉妹でこうも似るものかと不思議に思った。女が夜を恐れるのは従姉妹の死に起因し、男が夜に頭が冴えるのは恋人の死に起因した。
同じ人間の死が、別々の場所から異なる形で認識される。共有しているはずの悲しみや愛ですら、すれ違いと無理解を絶えず生み出す。
「一度だけだけどね。聞いたの。あなたのことを責めるような言葉は一つもなかったよ」
苦しみによってしか贖われない罪は、さらなる苦しみを男に要求した。責められた方がましだった。責められ、苦しむことが、赦しになるはずだった。
「私の夜を閉じるのはあなたでも彼女でもなくお酒だけ。怖い。理不尽な運命が安らぎを奪い去ってしまうことが怖い。あなたはその時、なにかできるの?」
「やるよ。僕にできることはそれだけだから」
「お互いに、無意味なつぐないをしている気がするね」
「アハハ。違いない」
一緒に暮らし始めても、二人に幸福と呼べる時間は少なかった。
夜は彼女がふたりを結びつけた。束の間の女の笑みが、男に彼女を思い出させた。記憶がいたずらに引きずりだされて、心を、後悔で踏み付けにした。繰り返される苦悩こそが男にとっては救いで、女にとっては男の苦しみを見届けることが生きる意味になる気がした。
静謐な夜が部屋を満たす。暗い部屋で女の寝息が聞こえる。男の頭は冴えている。眠れそうにない。
テレビは黒い画面のままついていた。部屋が暗いからわかるが、電気がついていたら気づくこともない黒い画面は、ほんのりと光をはなっている。苦しい。だが、この瞬間だけが男にとって意味だった。
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