アタシのこえ

「うたいれた?」


 ――入れてない。歌いたくない。起きていたくない。なにも思い出したくない。なにも覚えていたくない。否定語。否定語。否定語。


 夢みたいなふわふわとした言葉の列が画面に現れる。誰のことを歌ったなら、何のことを歌ったなら、それほどまでに現実からかけはなれた言葉が思い浮かぶのだろうか。

 少女のいる、見る、生きる世界とは異なる別の世界でのできごとのように思えた。遠い。小さな部屋で箱詰めになって歌う。モニターの向こうのきらきらした世界に憧れながら。届かないと知りながら。孤独を歌う。




「おばあちゃん、いつ帰ってくるの?」


 弟の幼気な言葉が、どうしても少女の耳から離れない。母がホントのことを言ってくれれば良いのにとずっと思ったまま、それすら言えずにいた。

 ひとり欠けただけで、家の空気にができる気がした。言葉を交わしても、するすると抜けてこぼれ落ちてしまう。誰もがつかめない。無邪気な弟だけが、重くのしかかるようなを拒み、掻き回すような言葉を吐いた。


「おばあちゃんと公園行きたい」


「イイネ。でも、今日はアタシとじゃだめ?」


 少女はしゃがみこんで視線を低くすると、弟の頬に触れた。幼いながらもなにかを察している弟の笑みが、かすかに歪むのがわかる。申し訳なく思う。前を向いて進まなければならないのは、自分や母や父、祖父なのだ。彼だけが、意味も状況もわからないまま、誠実に生きている。




「ごめん、すぐいれるね」


「けー」


 ピッポッパッ。失礼します。オレンジジュースとウーロン茶です。

 店員が機械的な対応で飲み物をテーブルに置くと、再び機械的な動きで扉を開け、出ていった。端末で曲を入れるのと、ジュースを頼むのと、まったく同じ温度だった。


 ――とりあえず、こういうの入れておけばいいでしょ?


 ピッポッパッ。流行りの曲。不幸を素敵に歌い上げた曲。感傷に浸って少し寂しい気持ちになれる曲。現実よりもはるかに軽い。

 歌う。歌にたくした偽りの感情がマイクを通して大きくなって反響した。小さな部屋のなかで震えて、現実よりも大きくなる。本当に悲しい気がしてくる。少女は涙を流れるままにまかせて、偽りに自分をどっぷり浸からせた。


 プルルルルルルル。


「あと十分です。延長しますか?」


「あ、イイデスー」


 少女は淡白に答えた。もう、偽りは終わりにしても良いのだ。大きな声で、他人の悲しみを歌う感傷なんてなくても、本物の悲しみをここに持っているのだ。

 受話器を置いた。振り返ると、友人がちょうど歌い終えるところだった。彼女もまた、感傷的な涙をその目に浮かべていた。偽りの涙。彼女はまだ、本物を知らないらしい、少女は思った。


「え、もう終わり? じゃあもう二曲、歌っていい? 歌いたかったのがあるの!」


「わかった、じゃあアタシのは消しとくねー」


 ビッピッ。偽りは簡単に消せる。その瞬間が終わればなにも残らない。単純な世界。傷つかない傷つけない世界。それが平和な世界。




「もうおばあちゃんと会えないの? おばあちゃん。自転車、教えてくれるって言ったのに。いつ帰ってくるの?」


「ハハハ。アタシが教えてあげるって。ねえ、アタシじゃだめなの?」


 戒名代が五十万と聞いたとき、それでカラオケ何回行けるのだろう、と少女は思った。いくら死んでからの立派な名前があっても、弟と一緒に公園に行ってやれないなら、そんなのなんの意味もない。

 五十万円が憎い。同時に、何回行けるだろうと考えたカラオケまでもが憎らしい気がした。




「金なんて関係ないじゃん。馬鹿じゃないの、そんなの気にして」


「だって」


 マイクの電源を切った。自分の声で、言葉で、歌うしかなかった。

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