空白とわたしときみと
風に揺れる狗尾草を無造作に引き抜いた。毛羽だった種が肌をくすぐる。乾いた草のにおいがする。気温は下がり、空気が微かに湿っている。空腹感が、昼食を取っていないことを思い出させた。
――あっ。
男の体がバランスを失い、そのまま土手から転げ落ちそうになった。女が袖をつかんだ。
多摩川の空を川鵜が翼を激しくばたつかせて、首を真っ直ぐのばして飛んでいるのが見えた。二人して仰向けに倒れた。腕や足がいくらか痛むが、大きな怪我はしていないらしかった。
遠くの浅瀬で鷺が水をつついている。橋のしたで誰かがトランペットを演奏している。電車の音でかき消されてしまう。電車をおりた時に聞く音の正体を知った。
「今日は仕事休みなの?」
男は女に尋ねた。恋人とも友達とも異なる。同じ空白を持つという以外に共通点を持たない二人は、そこを埋める手段を知らないという意味で結ばれていた。不幸が人を結びつけることがあるのか、と呑気に感心した。
「遅番だって言ったでしょ」
「ああ、そっか。ごめん」
「別に、かまわないよ」
仰向けのまま夜を待つのかと思うくらい、そうして土手に寝そべっていた。西日が眩しかった。日が沈む前に立ち上がると、上流に向かって二人で歩き始めた。
「自殺ってどこか、事故みたいなところがあると思わない?」
川沿いの一部がよどみとなっている。とどこおった水は緑色に濁り、見通すことはできそうになかった。
「答えがどこかにあるわけじゃないからね」
女は続けた。過去のたよりない糸をたどるように言葉を選んだ。近づいているようで、実際にはわからない。遠景はいつまでもその大きさを変えないらしい。
「それでもそのつど答えなきゃならないわけでしょ。それが、自分の意思とか感情とは無関係に生まれることだってあるわけだから」
男はまたふらついて落ちそうになるが、女はもう助けようとはしない。落ちてしまうことは自らの選択でもあり、あらかじめ仕組まれた運命のようでもある。死はどこからやってくるのか。過去、未来。あるいは、人のうちに隠されているのか。
ひっくり返った蝉は、まだ生きていた。男が拾い上げようとすると、ギョロギョロっと鳴いて飛んだ。自転車をこぐ中年女性がおどろいて、よろけた。男のように落ちそうになるが、かろうじて体勢を立て直した。
「ねえ、アイス買って帰ろうよ」
「俺、財布持ってきてないよ」
黄緑色の虫かごは空だった。なにかが捕らえられたり、なにかを捕らえたり、そういうのは子供っぽいよね、と思ったものの、女は口にしない。すれ違う少年の表情に見る懐かしさと寂しさに胸が詰まる。苦しくなった。
「小説、書けないの?」
「あーうん。インスピレーションが、ね」
汗が額から流れ落ちた。傾いた太陽はどこか物憂げに照る。秋が深まる。さっきの蝉は、幻だったかもしれない。
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