ちょっとお話しませんか
「昨日、映画見に行ったんだ」
――って、何度映画の話をしただろう。
ファミレスを出てしばらく歩くと、女はDVDのレンタル期限がとうに過ぎていることを思い出した。
週に三日、仕事のあとにファミレスによって、簡単な食事と一杯のコーヒーを飲むのが習慣になっていた。夜にコーヒーを飲む話は誰にもしなくなってから長い。皆一様に同じ反応だった。
「よく夜にコーヒーなんて飲むね。眠れなくならないの」
――眠りたくないんだよ。
思ったことを口にすることはなかった。当然のように自分の言葉が人に伝わると思っていた頃が懐かしくなるくらい、周囲の反応に合わせて言葉を選ぶようになってから長い。
期待されている言葉を探して吐く出すそれは、誰の言葉なのだろう。そうして知らぬ間にきっと自分が自分ではないなにかに変えられていく。抗うこともなく。きっと映画だっていつか見なくなるのだろう。
「ただいま」
誰もいない部屋に、低い声が響いた。
テーブルのうえに青い袋が置いてある。萎れた花がビール瓶にささっている。いつ、なにでもらった花か、女にはわからない。枯れた花をずっと捨てなかった。瓶のなかは空だ。花びらは一枚も残っていない。それが花だったという記憶はあるが、どんな花だっただろうか、と何度も思う。
赤。黄。青。信号。赤。赤。赤い花だった。次第にくすんで茶色くなった。錆びた鉄のような色になると、はらはらと順に落ちた。過ぎていく時間に飲まれて容赦無く死んでしまう。植物は無力だ。弱い。簡単に枯れてしまう。
――本当に、そうだったっけ?
青い袋を取ると、すぐに家を出た。
夜なのにセミが鳴いている。どこか気怠く鳴く。夏の終わりが近いから、一日の終わりが近いから。雨が降ったのか、道路が濡れていた。
ぽつんと女のほほを水が打つ。空を見ると、星が光っている。雨ではない。誰かが泣いている。なんて、感傷的な気分の自分にすら気づいてしまって、すぐに切なさも消えてしまう。
「いらっしゃいませー」
近所で唯一生き残っているレンタルビデオ店だった。サブスク全盛の時代にあえて足を運んで借りる必要などない。これも何度も言われたことだった。だから、レンタルが趣味だという話を人にはしない。効率や手間とは無関係の喜びがそこにあると知らぬ人との会話など、女にとっても無益なのだ。
男の店員はセミのようにおざなりだった。閉店が近いから。給料日が近いから。二十歳くらいに見える。実際はきっと、女とそう年齢も変わらないのだろう。なにをしているのだろう。こんなところで。なにをしているのだろう。
女はDVDを返却し、延滞料金を支払い、店を出た。
「ただいま」
臆病になって押し隠していたはずの本性が、ふと扉を開けた瞬間にあふれだす。
ひとりはこわい。口にしてしまうのは、もっとこわい。冷蔵庫を開けた。缶チューハイがないことを忘れていた。三度目のただいまには、きっと耐えられない。
「やっぱり、また映画の話をしたかったな」
ほほを水がつたう。雨なんて降っていないはずだ。だれもいない部屋で雨なんて降るはずがない。電気を消した。家庭用プラネタリウムの電源をつけた。星が降る。動くのを止めた偽りの夜空の星は揺らがない。
静かな光だけが、近くにあるような気がした。
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