誰かのために降る雨に濡れる

「晴れたら散歩しようよ」


 雨が長く続いていた。男は陰鬱な空を見上げて、あたかもそこに青空が広がるかのような明るい笑みを浮かべた。

 女はなんとなく、それが許せなかった。呑気に苛立つ。どうしてかはわからない。うまく言葉にできない。すこし膨らんだ腹をさする。ちょっと太ったかな。無関係なことに意識を逸らしてから、男と向き合う。


「そうね」


 ――曇ればいいのに。


 遠足が嫌いだった。幼稚園のころ、海に行ったことをぼんやりと覚えている。曖昧な記憶。あるいは、家族と一緒に水族館に行った記憶だろうか。海沿いを走る国道の地下を歩行者用のトンネルがくぐっていた。薄暗く、狭い。ひんやりとしめった空気が背筋を這うように服の隙に闖入する。壁面にはリアルな魚が描かれ、目が不気味に光った。

 どれほどその記憶は正しいだろうか、と女は思う。ほんとうは遠足など行かなかったのではないか、と。そんな地下道はどこにもないのではないか、と。




「でも、それほど仲が良かったわけじゃないんでしょ」


 女の友達は、それほど気にすることではないという。女も、そのとおりなのだろうと思う。

 死はありふれていた。どこにでもあり、いつでもある。それがいつもより近い場所で、しかもなんの予兆もなく起こっただけの話なのだ。親しいわけでも世話になったわけでもない。

 日常の延長にある確かな死だった。


「ただのバイトの人。しかも、二、三度、顔を合わせたことがあるってだけで。それってほとんど他人だよね。だってさ、一日にどれくらいの人が世界で死ぬかって知ってる?」


 友人は脂下がり気味に言ってのける。


「知らない。どれくらい?」


「……えっと。それは知らないけど。たぶんたくさんだよ」


 たくさん。明確な数字を伝えられるよりもきっと、曖昧なままの方が女との距離感を推測するには良かった。無数の死に対して無関心でいられる。そう思ったはずなのに、その場にとどまることはできなかった。


「へー。まあそうだろうね」


 ――なんだ、知らないのか。


 世界、死者数、年間。検索結果。約六千万。女にはその数字が少ないようにも多いようにも思えた。数え上げられる死にどれほどの意味があるのかわからなかった。自分とは無関係に数えられる死の一つ一つにも、意味があるのだと想像してみるだけの余力はないし、してみたところで、ただの空想の域を出ない。とは無関係のたくさんの死。それは限りなくゼロに近い重みだった。


「すべての死を悼んでいるうちに、きっとあなたも悼まれるがわになっちゃうから。人の死ばかり気にしてないで、全力で生きなくっちゃ。生きることに集中すること」




「今晩、外で食事するってのもいいかもね」


「ええ、そうね」


 女は自分の声の冷たさに気づく。手遅れだった。鈍感さが唯一の取り柄である男ですら、無視することができなかった。

 男は女の手を掴んだ。


「ねえ、どうしたの? 俺がなにかした?」


 ――違うの、あなたが悪いんじゃなくて。私が。


「ううん。ごめん。ちょっと朝から体調悪くて」


「なんだ、言ってくれれば良かったのに。もう少しいようか?」


「平気。薬飲んだから」


 ――どうでもいい嘘。


 女は家を出た。

 スーパーの野菜売り場を過ぎ、鮮魚、肉を過ぎ、乳製品、ペットボトル、酒、なにもかも通り過ぎ、プラスチックのかごは空のまま。ガムを入れた。レジの女に差し出した。

 外へ出ると、まだ雨が降り続いている。なんとなく、良かった、と女は思った。男の待つ家に戻る気にはなれなかった。

 望み続けていたはずの未来という得体の知れないものの正体がおおむねつかめたところで知る。希望は手の届かない場所でのみ輝くのだ。遠くに光るからこそ、温もりが感じられるのだ。近くに寄ってみれば、あまりにたよりない蝋燭の火だと知ってしまう。

 なんて、そんな馬鹿げた人生でも続く。女は雨に感謝した。

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