夜の光にあつまる
「コンビニ行くけど、何かいる?」
夏の夜は虫が多い。女がドアを開けると、ブンと羽音を立てて、カナブンが部屋に入ってきた。
「キャッ」
女はとっさに身をかがめて、襲いかかるカナブンをかわした。カナブンは玄関の電球に真っ直ぐ飛んだ。バチン、と羽音を鳴らし、何度もからだをぶつけた。
近くのゴルフ場か痴漢森と呼ばれる雑木林から、無数の虫が光を求めて駅前に集まってくる。生きるべき場所を誤っている。光が偽物だとも知らずに、愚かにも。結末はわかりきっていた。大半が成虫になったにもかかわらずに生殖もできずに死んでしまう運命だった。
「ごめん、あとは頼んだ!」
女は足早にマンションのエレベーターへと逃げた。
ゆっくりと軋みながら扉が閉じる。動き出す時にワイヤーの唸るような声を聞く。油のようなにおいがする。
老朽化している。定期的に点検が入っているため、危険はないはずだった。なのに、終わりが近い気がした。独特な空気感というものがある。飛び込んできたカナブンだって、激しく翅を鳴らすくらいに元気だったのに。そうか、あの時だってそうだった。
予想などしていなかったのに、なぜか自分は必死だった。遠くにいってしまう、もう会うことができない。不確かな予感だったのに、あらかじめ確信していた。予知と呼べるほど大袈裟なものではないが、通常とはなにかが異なるときの気配を感じ取る能力に長けていた。
そんなの、欲しくはなかった。
「大人になったら、お兄ちゃんと結婚するの」
少女はナイーヴな笑顔を浮かべた。目の前の男が視線を逸らすことのないよう、その頬に手で触れた。上目遣いで甘えてみせる。
対等だと思っていた。年に大きな差があることはわかっていた。その差を埋められる程度にはませているつもりだった。女は振り返るたびに笑い出しそうになる。十歳にも満たない子供が、どうして大人と対等であり得るのだ。
「だめだめ。俺、年下には興味ないから」
少女は顔をくしゃっと歪めると、声を上げて泣きだした。涙は女の武器だ。ドラマで聞いた言葉の意味がわかる程度には自分のことも周囲のことも理解していた。だが、こうして求める答えを言わせるための強要が無意味だとは気づいていなかった。子供の無邪気は恐ろしいと、女はここで苦笑する。
「あ、ごめんごめん。わかった。おおきくなってお兄ちゃんより年上になったら結婚しよう」
「うん」
――嘘つき。
約束は守られなかった。女はいつのまにか、彼より年上になっていた。
コンビニの雑誌売り場に太った男がいるせいで、後ろを通れない。せめてその汚いリュックをおろして欲しい。
遠回りしてお菓子売り場から回り込んで、ペットボトルのドリンク置き場へ向かうと、そこにはいつものお茶がなかった。セカンドチョイスで安い烏龍茶。それと発泡酒とアイス。おざなりにつまみも。
――なんて優しい嘘つき。
ありえないのは当時から知っていた。ただ無垢なふりをしてやり過ごせば、いつかその嘘だって本当になるかも知れないという淡い期待だけを抱いていた。夢見るくらいのあどけなさは残していた。
少女だった女は、お兄ちゃんと呼んでいた男をそれ以上困らせたくなかった。嘘つきは男だけではなく、少女だった自分も同じだった。
――あたし、もうお兄ちゃんより年上になったんだよ。
レシートは捨てた。彼に見せる必要はない。飲めない彼の手前で五百ミリリットルの発泡酒を三本も空けるわけにはいかない。
コンビニの前の駐車場の縁石に座り、一本ゆっくりと飲む。アイスの袋をあける、つまみに買ったナッツも一緒にあける。小さな宴会。
「お、お姉ちゃん、いい飲みっぷりだねー」
「え、ああ、あざーす」
見知らぬ中年男性が一声かけ、中へ入った。原付に座る少年と煙草をふかす少女。さっきの太った男が出てきた。
深夜のコンビニですら、人が集まってくる。人。人。人。偽りの光に集まる。生きるべき場所を誤っている。女も同じだ。
「バッカじゃないの」
漫画の台詞みたいな言葉が自然と出た。少年少女が振り向いた。彼らと同じように若かったことを思い出した。くすくすと笑いながら小声で話している。なにもかもが馬鹿げている。
一本だけ飲み終えると、家へ帰った。迷い込んだカナブンは、とうに処分されていた。
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