うつろい
「もう少し、ここいる?」
雨はどうもやみそうにない。シャッターの下りた店の軒先で、ふたりは雨宿りをしていた。屋根を打つ不規則な雨音が、今の心を表しているような気がした。
女はバッグからハンカチを出すと、男の濡れたほほを拭こうとした。男はそれをはらいのけた。
「いいって、これくらい」
男は自分の機嫌が悪いのには気がついていた。だが、なにに苛立っているのか、自分でもわからない。
当然それは、女にもわからない。手を引くと、自分の濡れた髪も拭かずに、そのままバッグにそれをしまった。
雨がとばりとなって視界を塞ぎ、夜にふたりを閉じ込めた。密度を増すふたりの体温のせいか、小さな空間のなかでふたりの間にできた溝がじりじりと埋まり始めていた。
「ごめんなさい」
女は髪をかきあげ、耳にかけた。しずくがうなじを濡らし、襟の内側へと流れていった。女は「へへ」と不器用に微笑んだ。
「あやまるなよ、こんなことで」
――こんなことが言いたいんじゃないのに。
男は濡れたほほを袖でぬぐった。なにもかもがうまくいかない。誰かのせいにしたいわけでもない。ただ、どうしようもない。それだけだった。
「やまない雨はないって、誰が決めたんだろうね」
雨を見ながら、少女はほがらかに笑った。ユーアーマイサンシャイン。馬鹿げた歌詞だと少年は思う。君は僕の太陽。馬鹿げた歌詞だ。
「知らないけど、それはそうでしょ。ずっとやまなかったならどこもかしこも洪水だよ」
どこまでも続く鈍色の空を見ながら言ってはみたものの、雨がやもうがやむまいが、そんなことは関係ないのだと思った。
少女の笑顔は消えない。日の光を浴びる暖かさ、快さに似ている。この先百年、雨が降り続けたとしても、少女がこうして目の前にいるのなら同じことだ。
「でも、あたしたちが知らないだけで、どこかで降りつづけているかもしれないでしょ」
「あはは、確かに。僕らがいつまでも同じ場所にいるから。雲が遠ざかっていくだけだからね」
「そう。追いかけ続けたら、きっと雨も太陽も、ずっと一緒にいることができるんだって」
眩しかった。
「ごめんなさい」
――だから、あやまるなって。
男は黙ったままうなだれた。
女は隣で、今にも泣き出しそうな顔をしながら雨を見ていた。
雨が弱まる。
目のまえの道を、少女と少年が歩く。赤い傘をさした少年と、青い傘をさした少女。
交換したのかな、と女がそんなことを考えているうち、ふたりはいなくなった。雨の音を聞いた。乱れたリズムのなかに、ぽつん、ぽつん、ぽつん、と強い音が混じっている。上の電線から垂れたしずくだろう。
――わかってる。文化の違い。生まれた場所の違い。風習の違い。慣習の違い。僕と彼女は違う。違う。ただそれだけだ。それだからこそ、彼女のことを好きになったんじゃないのか?
「あたし、ハーフだよ?」
「へー。そうなんだ?」
それがどうした、男は思った。それよりも、やまない雨がどこかにあるかもしれないってほうが、ずっと大きな問題だ。動き続けていれば、悲しみも喜びもいつだって捕まえられる。止まってはいけないのだ。
「ことばにしてみればいいよ」
――どうして彼女に話したのだろう。
男は少女のことをノートに書いた。押し入れのおくにしまったままの古いおもちゃ。卒業アルバム。いつか図工で描いた絵。どこからか掘り出したはずの言葉は、ただ懐かしいだけの思い出と同質の、過去の一断面として埋もれていた。無理やり掘り出して、埃を払い落とした。懐かしくて、遠くて、もどかしかった。
――ああ、だから苛立っていたのか。
男は、少女の言葉を思い出した。追い続けたら、か。いつのまにか歩くのをやめたことに気づいた。
隣の女を見た。雨のように暗い表情に、三白眼がきらりと光る。これもまた同じ。追い続けたら、ずっと近くにいられるのだろうか。わからないけど、悪くはない気がした。
「そろそろ、行くか」
男は女の手をつかんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます