水族館の人魚は夜に歌う

 ペンギンたちが列になって並ぶ姿を見るものは少なかった。

 正午に始まるイルカショーに合わせて半円形の劇場へと人が押し寄せ、取り残された人々だけが、深海をさまようように順路を巡り、その場所へとたどり着いた。

 水槽の前には若い女が一人、中年の男が一人。互いに距離を取って立って見ていた。男には見覚えがある。釘付けになったように水槽を凝視している。女は初めてだ。ペンギンを見たり、スマホに視線を移したりと、まるで落ち着きがない。

 海辺を模してつくられた展示用の岩場の中で、フンボルトペンギンが一列に並んでいた。白と黒の体の模様は、足元の光と影に馴染み、全体が大きな生き物のようにも見えた。

 岩場の一番高い一画で腰をかがめ、青いバケツからペンギンの餌となる魚を手に取る。体重をはかるための小さなスケールが置かれ、行列の最前列の前には白い仕切り板があった。仕切り板を持ち上げると、下に開いたわずかな隙間から首を出して何匹か潜り込んでこようとするが、一匹ずつ通し、再び仕切りを下ろした。順番に餌を与え、スケールで体重をはかった。

 飼育員の女の手には用箋挟に記録紙とペンがあった。計測を終えたペンギンの体重を記録し、仕切りの反対側からペンギンを下へとおろしていく。岩場の一番高い飼育員のいる場所へはもうのぼれない。そうして確実に一匹ずつ、決められた量の餌を与えるのだ。

 水の中に一、二匹だけ、餌に興味をもたないものが残されてはいた。彼らも空腹に耐えかねたのか、やがて列の最後尾へと並んだ。泳ぐペンギンの姿はなくなった。立ってそれを見る女のもとに、同じ年頃の男が軽い足取りで近づいた。二人は腕を組んで奥へと抜け、途中のゴマフアザラシには目もくれずにイルカショーの劇場へと去った。

 水槽の前には中年の男が一人だけ残された。ふと、水槽の向こうからはどう見えるのだろうと思う。ガラス越しに見えるペンギンたちの濡れた羽毛のかすかに油で光る美しい色彩は、向こうからも見えるのだろうか。海の、生臭いと言ってもいい命のにおいが少しでも感じられるのだろうか。そして、自分も展示された動物の一種として、ヒトとして見られているのだろうか。

 女は淡々と餌を与え続けた。

 フンボルトペンギンは相変わらず餌をもらうために一直線に並んでいる。餌を与えられたペンギンは満足したのか、水に入るでも列に並ぶでもなく、平たい場所に立ち、空の描かれた天井を仰いでいる。眠いのか、目をつむるものもいる。

 イルカショーの演者の声が遠くから聞こえ、応じるように観客が色めき立つのがわかった。分厚いガラスで仕切られた水槽とは違う。あそこには隔てるものがない。

 男の視線を感じた。ガラス一枚で隔てられた向こう側には、別種のざわめきがあるように思える。声が届かずとも、通じる気がする。一人になったからか、男は微笑を浮かべた。

 残りは六匹ほど。記録紙に並ぶ名前と体重という無機質に思える文字と数字の羅列ですら、女の目にはペンギンの個性の相違をそこに見る気がする。つぶあんはお腹にポツポツと特徴的な斑点がある。妹のおはぎにも似た班があるが、どこか輪郭がぼやけていていつも眠そうだ。ステプラは嘴をかちかちと鳴らすのが好きだ。その父のシザースは水を切って泳ぐ。ヴィオラとクラヴィアは姿形のよく似た兄弟で、長いあいだ飼育しているベテランでも見分けるのは難しい。規模の大きなペンギンの水槽がある水族館の多くでは、羽の根元にバンドを付けて管理しているが、ここでは弟のクラヴィアにしか付けていない。唯一誤る可能性があるからだった。

 ペンギンにとってはなんてことはない、生きるためにただ食い、泳ぎ、立ち尽くしている。水槽から逃れる術などなく、逃れる意味すら彼らにはないだろうと女は思う。

 水を見た。着色された水槽の底の青い背景のために、漂う排泄物は夜に降る雪のように白く見えた。泳ぐものがいないからか、底でゆらめく排泄物も透けて見える。ペンギンが鳴く。静かだった。

 わっという声が再び遠くで響いた。

 晴れた秋の日の空に、イルカのゴムのような肌がつやつやと照り輝く。流線型の美しい肉体を宙高く飛ばして、半回転して垂直に水へと吸い込まれていく。着水と同時に弾けた飛沫は放物線を描いて最前列の観客席を濡らす。悲鳴とも歓声とも区別のつかないような高い声が反響して半円形の劇場内でなんども跳ね返る。

 女も遠い昔に見に来たことがあった。果てしない海を背景にした半円形の小さなプールの中で、悠々と泳ぐイルカを見たのだ。中学生。将来を決めた瞬間だった。


 最後の一匹、フォーマルハウトは飼育員たちにはマルちゃんと呼ばれている。秋の夜空から名前をもらった幸福なペンギンの藍色の背中には、ぽつんと白い斑点が一つある。触れると、水に濡れた羽毛は夜のように少し冷たかった。

 室温は一定に保たれている。暑さに弱い。フンボルトペンギンの生息域は比較的温かいが、ペンギンの身体構造的に、極端な暑さには耐えられない。温度管理は厳密だった。涼しい季節になってきたものの、冷房なしというわけにもいかない。

 首元を掴んで半ば強引にスケールに載せた。体重が規定の数値を割ってから、既に二週間が経っていた。獣医曰く、季節の変化に適応できないのだろうという話だった。原因はわからなくとも、結末だけは見えていた。時々、環境に適応できないペンギンが現れる。血が濃くならないようにと、他の水族館とも交配を繰り返してきた。遺伝的には近いものが多いが、馴染めないものがどうしても出てくるのは不思議だった。

 列にしぶしぶ並んだマルちゃんは、ゆっくりと嘴を開いた。さあ、入れてみるがいい。そう言っているかのようだった。女は躊躇した。生かす可能性のある手段が他にわからなかった。マルちゃんは苦しそうに魚を飲み込んだ。女はあくまでも機械的に作業を進めた。たとえ最悪の事態であるペンギン一匹の死を受け入れるのにも、一週間ほど夜を彷徨えば十分。それで終わることだ。空から星がたった一つ、消えるだけだなのだから。

 規定の体重を満たすだけの量を食べさせると、給餌が終わった。まだガラスの向こうで男が見ていた。視線が合った。彼も知っているのだと思ったら、笑みを浮かべたつもりが、なんとなくぎこちなく頬が引き攣った。イルカたちの遠くの声は聞こえない。ここだけが夜なのだった。

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