慌てなくてもいいのにね
「ほら、みんな並んでるから」
少年は母の手を引き、列にわりこもうとした。隙間が空いていた。穴を埋めるように二人がそこへ入ればちょうど良いと思ったのだろう。彼は立ちどまると、母を見上げた。
「大丈夫。急がなくても、逃げやしないよ」
女は優しく少年の肩を抱いてから、頭を撫でた。隙間が空いていたら割り込んで良いというものではない。女は息子の背をそっと押して、最後尾に並ぶように促した。
「でも、順番を守らない人もいるよ」
少年は不服らしい。男が割り込んだのを、その目で見ていたのだ。数量限定ということもあり、誰もが朝早くから駆けつけていた。男の割り込みを見たものも多いが、誰も文句は言わない。隆々とした男の肉体と尋常ではない視線を一目見たら、ただならぬ空気を感じる。
「守らない人は、悪い人だからね」
三番目に並んでいた男がちらと振り返ると、親子を見た。視線を逸らし、最後尾に並んだ。目当てのトレカのキットが手に入るか、微妙なところだった。
「おばあちゃん?」
孫はもう十六歳で、祖母と遊んで楽しい年齢ではないだろう。老女はそう思いながらもこうして時をともに過ごせるのが嬉しかった。
「ああ、なんでもないよ」
テーマパークにはカップルや親子連れ、友達、無数の人であふれている。そのどれもが他人であることが、老女には信じられない。どの顔も知った顔だ。
――ほら、あそこにいるカップル、男のほうは昔近所に住んでいた男の子、女のほうは同じ会社にいたお局様。あそこの親子は中学のときの隣のクラスの秀才、名前はなって言ったっけ、忘れちゃったけど、あの人と、そのお父さん。お医者さんだったんだよ。
遠い記憶が今に割り込んで、ありもしない現実を見せる。そこにはいつも、欠落があった。足りない。足りない世界の穴を埋めるために、物語を紡いでいくしかない。不毛なようで、悪くないと思った。
「どうしたの、少し休む?」
――優しい孫だねえ。誰に似たんだろう。
「おばあちゃん、少し休む?」
「ああ、ごめんね。少しあそこで座っているわ」
――そうか、この娘に似たのか。
『おふくろはあれやれこれやれって言ってきたけど、俺は自分で自分の人生を決めてきたんだ。口出しするのは構わないけど、これもやっぱり俺が決めるから』
息子は女の言葉を気に留めることなど一度だってなく、あっというまに人生を駆け抜けた。
結果として正しかった。嫁も孫も優しかった。女が老いて夫を失ったことを知ってからは、こうして頻繁に顔を見せては、外に連れ出してくれた。孫が遊びたがっているという口実で何度も訪れたが、気遣っていることは明らかだった。
三人はベンチに座った。
昨日降った雨のせいか、蒸し暑い。ぼんやり空を仰ぐ。やわらかい光が、しめった空気のとちゅうでまどろんでいる。夜のうちに、空に帰るのをわすれたのだろう。老いた女は、思ってもみなかったことを不意に口にした。
「……お迎えはまだかね」
「やだ、おばあちゃん。縁起でもないこと言わないでよ」
嫁は冗談だと思ったらしく、笑って肩を叩いた。女は自分で口にした言葉に驚いて、ほんの一瞬、阿呆のように口をぽかんと開けていた。
「……あはは。違うのよ。明日ね、隣の棟の、ほら何さんって言ったかな。あの人。あの人の息子さんが車出してくれるって言うから。それでね。ちょっとボケちゃったのかしらねえ」
――息子さん。みんなちゃんと待ってるんだから。順番を守りなさいよ。
「やだ、おばあちゃん。まだ、私たちといっぱい遊んでもらうんですからね。未亡人同士、仲良くしましょうよ」
嫁の笑みに嘘はない。女はそう思った。
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