燃えるもえる赤

「あ、消防車。火事かな」


 ギュッと波長の縮こまった音が交差点に近づいてきた。

 車が止まるのと一緒に二人は足を止めた。女は蛇が巻きつくように男の腕に絡まり、その肩に顔をよせた。上目遣いで下から瞳を覗き込んだ。黒く暗い。感動のない表情。不安を見せて甘えたつもりだったが、通じないものは通じない。欠落があるのは自分なのか相手なのか、女にはわからなかった。


「改札でガタン、とかなるやついるじゃん。チャージ足りてなくてさ。あれまじイラってするんだけど、なんなん」


 男の声の孕む微かな怒気の向く先も不確かなまま、過ぎ去った低い音はうどんのように伸びていく。反対の耳からだらしなく垂れる。意味のない関係が続くのとよく似ていた。

 横断歩道は赤になり、消防車のせいで赤信号二回分ほど待つことになった。駅から流れてきた人たちが立ち淀み、交差点の四点にだんだんと溜まっていく。まるで帰るべき場所に迷っているかのようだった。向かう先を明確に持たない者などほとんどいないはずなのに、誰もが迷子の子供のように泣き出しそうで不安に見えた。

 青になる。人の足はそれを合図に動き出す。意思など必要ない。機械のシグナルに合わせて動く人々は、そう主張している気がした。

 毎年のように秋を探して商店街を歩く。隣に並ぶ男の歩みは遅く、女にはもどかしく感じられた。においが混ざる。香りが呼び起こす記憶の数々をすりぬけながらも、ゆっくりと道を歩いていく。男は躊躇なく自らの過去に絡め取られて、停滞してしまう。時間が遅く進むことを恐れもしない。腹の底に沈んだはずの怒りや悲しみを掻き回しては、呼び覚ましていく。

 不毛だ。

 時間の流れ方が違うのだ。だから話が噛み合わない。ずっと前に話したことを唐突に思い出して引き摺り出されては、女は知りもしない過去の周辺で振り回される。結果として自分とは異なる時間のうねりに飲み込まれ、二軸の時間を生かされる。今と過去が近過ぎるのは、生きるにはあまりに不自由だった。

 男はたこ焼き屋のまえで足をとめ、なにも言わないままじっと店主の手さばきを見ていた。

 満足したのか、二度頷き、またゆっくりと歩きはじめた。女はもどかしく感じた。何年一緒にいるのだろうかと思う。正確には思い出せない。数年間が長く感じられないのは幸福だったからではなく、前後不覚だからだ。にわかに引き摺り出された過去は今の中で、いつだって不思議と質量を持ってしまった。


「火事、どこであったのかな。近所じゃなきゃいいけど」


「火のない場所に、消防車は向かわない。僕らの家の近くかもしれないね」


 噛み合わないようにずらす。違いの違和感で遊ぶ悪趣味が、男にはある。女はその度に不安になる。今と過去がじりじりとせめぎ合う。過去からの侵略者が心を占めて、古い記憶を大群となって引き連れてくる。

 怖い。怖いといっても逃げられない。それでも、ひたすら男と腕を組んで歩くしかない。少なくとも、こうして一緒に歩いている限りは、同じように時間が進んでいくはずなのだから。




 小学校の夏休みの花火大会の後、クラスメイトの家が燃えた。家で留守番していたジョンが犠牲になった。ゴールデンレトリバー。

 火災保険でジョンは戻らないのだと嘆いて泣きわめく彼が、どこかうらやましかった。女だけではなく、クラスの誰もが嫉妬した。みんなには起こらない特別な出来事が、彼にだけ起こった。クラス中の注目と同情を一挙に集め、彼自身もどこか悦に入っていた。

 嫉妬心が火を魅力的に見せた。揺れる赤と橙に一瞬だけ触れると熱が指先を焼くのがわかった。危険だと知りながら、なんでも無邪気に燃やした。大きな火に包み込まれるジョンの姿を想像した。泣く自分を想像した。太い声で鳴く大きな犬が哀れにも息もできずに死んでしまったことを嘆く自分は、可哀想で、美しかった。

 幼かったのだ。

 あふれた血。消えゆく意識。サイレン、サイレン、サイレン。

 老婆が少女の手を握った。地面に膝をつくと、少女の耳を覆うように、胸に押し込めるように、きつく抱きしめた。男は担架に乗せられた女とともに救急車に連れ添う。老婆の肩越しに、担架からはみだした女の白い足が見えた。人形みたいに綺麗な足。サイレンは遠ざかった。

 学校で、少女の家で起こったことが話題にあがることはなかった。火災保険で戻ってこないのは、ジョンだって同じなのに。悲しみに共感するものも、羨むものもいなかった。


「ごめんね、ごめんね、ごめんね……」


 老婆のしゃがれた声が耳の奥に残ってくすぐったい。けらけらと笑い出したいような気がするのに、荒くなった横隔膜の上下動からは、ひっ、ひっと乾いた息が漏れるだけだった。




「おじさん、六個入りをひとつ」


「あいよ」


 買わないと失礼だと思い、女は食う気もないたこ焼きを買った。釣りを受け取ると、歩く男を追いかけた。

 斜向かいの花屋で薔薇のにおいをかいでから、三軒先の八百屋でかぼちゃを叩いてその音を聞いている。熟しているかどうかは、音でわかるとテレビで聞いたばかりだった。


「ねえ、たこ焼き買ったよ」


 届かないと知りながら声をかける。


「このかぼちゃ、まだ時期じゃないな」


 遠くでサイレンが聞こえた。今度は救急車だ。女はあの日以来、救急車と消防車の音を聞き分けられる。

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