紫煙のむこうのオレンジ

「ねえ、早く帰ろうよ」


 少年は少女のワンピースの裾を強く引っ張った。五時を二十分も過ぎていた。少女は聞く耳を持たずに少年の手をつかむと、そのまま藪のなかへと駆け入った。


「どこ行くの? お母さんに怒られるよ」


 ジャングルジムの五段目から飛び降りて少女が足の骨を折ると、一緒にいた少年まで大人たちに叱られた。お前は男の子だろう。お前がそそのかしたのだろう。挑発したのだろう。男の子だろう。男の子だろう。少年には耳障りな言葉ばかり。とりわけだろうという言葉にはうんざりした。少女は男勝りのじゃじゃ馬だった。

 少女も悪い。女であることをいいことに、少年に罪をなすりつけた。憎かったかが、一緒にいて楽しくないといえばそれも嘘になる。彼女の背中を追いかけているうち、気づくと見たことのない光景が広がっていた。

 少年の方でも、彼女を突き放すことができなかったのだ。


「最初の枝に手が届くようになったの。銀杏の木だよ。枝がぐるぐるまわりながら階段みたいに張り出してるから、簡単にのぼれるの。今日、これで最後だからさ。のぼったら帰ろうよ。六時には帰れるよ」


 少年は仕方なくあとに続いた。

 高い銀杏が何本か並んでいた。扇型の緑の葉のすきまから漏れる日の光が眩しかった。傾いた太陽はもうすぐ隠れようとしている。早く帰らなきゃという気持ちと遊びたいという気持ちがせめぎ合うが、どちらが勝つかなどあらかじめ明らかだった。

 少年には、どの銀杏の枝にも手が届きそうになかった。一人では全体にのぼれない。少女の方がいくらか背が高い。少女は少年より高く跳べる。少女なら届くかもしれない。

 少年はそう思った。




 喫煙室は人でごった返している。数千人は下らない人数のビルに、小さな喫煙室がひとつあるだけ。洗練されたエリートサラリーマンたちのほとんどは煙草を吸わないか、吸っても一日に一、二本。

 男のように一日に一箱吸い切ってしまうヘビースモーカーは皆無に等しかった。部長を除いて。


「また、喫煙室で会いましたね」


 部長の眼鏡の奥の瞳がにぶく光った気がした。くだらないおしゃべりに興味はないといった態度をとって見せるのが、ただの彼女の強がりだと知っていた。


「煙草、からだに悪いわよ。やめたほうがいいわ」


「部長こそ、人のこと言えないじゃないですか」


 気だるげに吸気口へと煙を吹き上げると、とん、とんと煙草の灰を落とした。テーブルに肘をつき、煙草を持ったまま手のひらにあごをのせた。珍しく、低い位置から上目遣いで睨んでくる。


「……あのね、私はからだに悪いって知ってるから吸うのよ」


「へえ……。それはまた、合理的ですね」


 半ば苦笑するように、男は微かに口角を上げた。


「なにそれ、皮肉?」


「いえ、言葉通りです。僕も同じですから。少し不健康なくらいが、僕にとっては健康なんですよ」


「……ああ、同類ね」


 文学部日本文学科卒業。文系のなかでも際立って社会の役に立たない学科。せめて外国の文学であれば、語学力を評価されることもあろうが、日文はまったくもって無意味。

 部長はちょうど一回り上の大学の先輩にあたる。年の離れた部長に親近感を抱いていた。

 いつも男の手を引いた、あの少女に似ている。




「先にのぼっていいよ。あたしは自分で手が届くから」


「うん」


 少女が立てた膝を足掛かりにして、最初の枝に手を伸ばした。手が届けばあとは自分の力であがれる。

 足を器用に振り上げ、枝に掛ける。そのまま上体を持ち上げて次の枝に手を伸ばし、からだを持ち上げる。一度からだを起こしてしまえば、あとは順番に枝に手を伸ばして行けば簡単に高い所までのぼることができた。

 少女は一人で枝を掴むと、途中で少年を追い抜かしてさらに高い場所へとのぼっていった。

 一番高い枝に少女、すぐ下の枝に少年が立った。見通しがいい。団地のすきまから、西の空に日が沈んでいるのが見えた。

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