少女は過去とキスをする

「この曲ってなんだっけ?」


「ねえ。あんた、イヤホン着けてるよ」


 くぐもった遠い声。ああ、自分にしか聞こえていないのか、と少女は思う。目を大きく見開いた後、なまけもののような気怠い仕草で腕を持ち上げた。

 イヤホンを取るのすら億劫だ。

 途中で腕が落ちる。力が入らなかった。

 腕を高くあげるまでもなく、イヤホンジャックから引き抜いてしまえばいいのだと気づいた。スマホからコードを外した。

 ボボ、と低い音が鳴り、音楽が止まった。スマホがイヤホンを認識できないと、音楽が止まってしまうらしい。


「消えてんじゃん」


「ああ、ごめんごめん」


 ベランダから見下ろしたグラウンド脇の小道に模擬店が立ち並び、人がごった返していた。あれに紛れる気はふたりともない。不良というわけでも優等生というわけでもない平凡なふたりは、こういう時にだけ奇妙にも結託した。

 いつか大切な青春の一ページとして思い出に残るはずの学園祭というイベントですら、常にどこか遠い場所から眺めているだけだった。まるで、自分のことではない気がした。


「はい、これで」


 三角の再生ボタンを押した。スマートフォンから音楽が流れる。流行からは外れた十年以上も前の曲だ。ふたりにとっては懐かしくも、逆に新しくも、ない。

 退屈やマンネリに浸かることを覚えたふたりには、感情に強く訴えかけるような曲は不似合いなのだ。


「あーあれあれ、これ、なんだっけ」


 見えない薄い膜で包まれたみたいに、ふたりの間でだけ音がとどまっているような気がした。声も、膜の内側で反響して揺れている。並ぶ店から沸き立つ音が遠く感じられるのも、膜が覆っているからだ。

 読み終えたマンガを、積み重なった机のすきまに入れた。教室にイベントスペースを確保するため、机や椅子をベランダに出していた。その一画に城を築き上げるかのように、誰も立ち入れないふたりだけの空間を作り出した。

 日差しが強かったので、ジャージを高く積まれた椅子の脚にくくりつけて日よけにした。余計に外の音が遮られ、遠くなる。青も、空も、なにもかもが遠い。


「ねえ、抜けてカラオケ行く?」


「そりゃ叱られるわー。やめとこ。っていうか、みんなよくだよね」


「ホント。って、あいつ、走ってるんだけど」


 校庭の隅で、クラスメイトが走っていた。陸上部。走る以外には興味がない男子だった。


「ホントだあ。なんかでも、……ある意味あたしたちと一緒じゃね?」


 一緒。一緒、ではない。彼の上には確かに、秋の透き通るような青い空があった。少女たちは光をこもり、小さな城に引きこもっている。一緒。ではない。


「どだろ?」


「文化祭に興味ないですって」


「まあ、そこだけはね。一緒かも」




 枝豆をひとつつまみあげ、かじる。半分ほど残ったビールを一気にあおると、急に酔いが回った気がした。


 ——あんなの、遠い昔のことだ。


 一緒にいると自然と遠い過去がよみがえってくる。少女だったふたりの青春は、遠くから眺めてみると、それもまた一つの青春であることには違いなかった。


「明日仕事っしょ?」


 女が向いに座るもうひとりの女に言った。気の置けない関係だと、たったの一言でわかる声の響きだった。


「ん、休み。というか、あたし今、毎日が夏休みだから」


「おわ、まじか」


 ごとん、と音を立ててジョッキを置いた。結露したしずくが跳んだ。テーブルの上で細かな球状に散って、淡いライトに光っている。

 遠く、小さな記憶のはずなのに、どうしてそんなに眩しく感じられるのだろう。その答えだって、女にはもうわかっているはずだった。


「八末で終わり。次は決めてない。もう働きたくないなー」


「何か月続いたの?」


「八か月」


「彼とは?」


「八年。そっちは」


「八年。彼とは八か月」


「同じだね」


「あはは、同じじゃないけどねー」


 分水嶺を越えればあとはくだるだけだ。川はいつか海にいたる。途中で蒸発した水はまた峠をのぼって雨となって降る。

 少女だった女は、蒸発した水が空高く浮かんでいく光景を思い浮かべては、漠然とした不安を覚えた。不安の正体に気づいているからこそ、解決しようのない問題が重くのしかかる。遠い未来に待つ、あるいは案外近い未来に待つ場所には、次第に冷たくなるような闇のグラデーションが続いている。世界は光から始まったのだ。どのような形で終わりが訪れるかなど、もはや十分にわきまえているはずだった。


「なにかお持ちしましょうか」


 店員が空になったジョッキを二つ指にかけて、皿を上に器用に重ねていった。居酒屋でよく目にする日常的な光景のはずなのに、不意に、大した芸当だと思い至る。この発見はなんだろう、と女は思う。


「どする、そろそろ次いく?」


「いや、いいよ。動くの面倒臭い」


「おけ、じゃあビール二つで」


「かしこまりました」


 空の器を何枚も一度に片付けてしまった。空白のできた四人掛けのテーブルを、おしぼりで拭いた。さっぱりしたものだ。二人が立ち上がると決めていたら、後にはなにも残らなかったかもしれない。そう思うと、もう少し居座ってもいいかと考えてみたくもなった。


「あたしたちって、高校の時からちっとは成長したのかな」


「ん。成長ってなんぞや。変わりはしたでしょうよ」


「そりゃね」


 追加で三杯ほどビールを飲んだ。ビールが好きだからではない。選ぶのが面倒だからだ。変わらない時間が続くことが心地よいからだ。ずっと同じでこのまま。だらだらと惰性で死に近付く。いつか、闇が覆うその瞬間まで、ずっと、ずっと。

 真夜中のスクランブル交差点には、人が少ない。終電と始発の中間。交差点の中央。人生の折り返しというものがあるのだとしたらきっと、二十歳くらいだろうと知った。ずっとずっと、重力に任せておりてきた。だから今くらい、あらがってみても良いだろうと思った。キスをした。十五年くらい前に、しようと思ったことだった。と、どちらかが言った。ドラマみたいだね。ふたりで笑った。

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