なくしたならまた書けば

「どこやったんだろう?」


 ひとりごちたところで誰も聞いてはいない。山積みになった資料に視界は遮られ、互いのことなど誰も気にしない。光のなかを漂うほこりが目に映る。地上に光があることを、その埃臭さだけが教えてくれる。

 半地下の部屋に四人、まるで牢獄のようだった。紙とインクの山のどこかに、遠い手紙があるはずだった。


「ほら、石焼き芋の時間ですよ」


 黄色と緑のブラジル国旗のような派手なワンピースが眩しい。

 二十五なんてもうおばさんですよーっと三十三歳の女のまえで平気で言ってのける彼女は、財布片手に立ち上がると、ひとり部屋を出た。あとを追うように、がたいのいい長身の男が黙って部屋を出た。秋だ。いつのまにか決まりごとのようになっていた。二人は芋を買いに行く。


「良いですよ。行ってきても」


 残された女は、もう一人の中年男にいった。彼はいわれるのを待っていたのだ。いわずとも、先の二人のように行ってくれればいいものを。


 ——面倒。


「あ、本当ですか。では、行ってまいります。ありがとうございます」


 中年男が部屋をあとにすると、急に静かになった。紙のこすれる音、タイプする音、ささやく声、せき、いき。女は手紙を探し続けた。捨てられない、擦り切れた、汚れてしまった手紙と過去だった。




「あの、これ。良かったら読んでいただけませんか」


「え?」


 味気のない茶色の封筒と便箋。自信なさげな表情とは対照的な、力強い、達筆な文字。流麗な文体に、インテリ気取りだった女は一瞬にして魅了された。

 女は、まだ少女だった。

 顔も覚えていない。声だってほとんど聞いたことがない。同じ電車に乗ったことがあるのは知っていた。それも数えるほど。好きだと気持ちを伝えられても、応じかたもわからない。

 青年は去った。彼がなにを期待していたのかはわからなかった。自分がなにを期待しているかなどなおさらわからなかった。

 時は過ぎた。電車で会うことはなくなった。返事を書く先もわからなかった。あてのない気持ちだけがいつも一緒に電車で揺れていた。

 彼には二度と会うことはなかった。




「ああ、あった……」


 手紙を見つけ出すと、女も彼らをあとから追いかけた。四十階以上あるオフィスビルの前に、昔ながらの石焼き芋のトラックがとまっていた。何人かその前に集まっていた。課の連中だ。


「お、課長も来たんすね。めずらし」「ホントだーついにダイエット諦めたな」「ひどいこというな。おごってやろうと思ったのに」「まじか、やった」「あ、ありがとうございます」「くそ、仕方ねえな、一個ずつだかんな」


 四人で社の前の公園のベンチに腰掛け、食べる。社の者と顔を合わせることも多いこの場所で課の連中と一緒にいることを、いつのまにか恥ずかしいとも思わなくなった。

 もう戻る道はない。出世と縁のない女を見下す同期も多い。だが、そんなことがどうでも良くなるくらいに、悪くない仲間だった。ああ、ありがたい。居場所があるのだ。


 ――この気持ちを伝えずに去るのは、心苦しいのです。


 ふと、手紙の言葉が脳裏をよぎる。

 伝えるのと、伝わるのとは違う。あの頃は考えもつかなかった皮肉な声がどこからか聞こえる。

 言葉にしたからと言って、それが必ず伝わるとは限らないのだ、言葉にしたって伝わらないから苦しいのだ。伝えようとしたのに伝える手段を他に知らないからつらいのだ。

 素直でナイーブだった愚かな少年少女。青春は戻らない。


「あれ。それなんすかー?」


「え、ああ、これね」


 女は手紙をスカートのポケットに入れたままだった。二十五歳のブラジル国旗は、爛々と瞳を輝かせている。一つ食べたばかりというのに、もう一つ、既に買う気らしかった。ブラジル国旗がいうには「人生は短いから後悔しないように芋を食うのだ」とか。

 女も立ち上がった。


「おじさん、これ燃やせる?」「え」「紙だから、燃えるでしょ」「ああ、いいよ」「あと、焼き芋、もう二つお願い」


「やったー」


「馬鹿、あたしが二つ食べるんだよ」

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