まだ終わらない日々

「あー、まじで終わんない!」


 オフィスから見える東の空はしらむ。焦りが頭の働きを弱め、朝が来たことで、諦めに似た感情が生まれ始めていた。


「いっそもうあきらめるってどう?」


 女はいった。声が薄い。届いたか不安になる。淡い青の下に、赤い空が覗いている。朝が来るのだ。


「ハハ、それな。できたらもうしてるけどな」


 画面に映る数字の羅列が誰かの行動の断片を切り取って表している。残業しているのか、始業前に早く出社しているのかの区別できない時間だった。

 女のからっとした皮肉まじりの笑いはたったふたりの執務室に抵抗なく広がる。同期の同僚で同性、しかも高校時代からの友人である隣の女は二日の徹夜もものともせず、平然とした顔で業務を続けていた。


 ――そっか。昔からこうだったっけ。



 演劇部の強豪校。発声のため、見た目を整えるため、役作りのため。理由はなんであれ、女とその友人は、演劇部でありながらも体育会系さながらのトレーニングを三年間続けたことで、心もそれなりに鍛えられた。その時も、友人ははなから平然とした顔で走り込みも腹筋もやってのけた。誰もが「こんなことをやるために演劇部に入ったんじゃない」と不平不満を一度は漏らしたのに、彼女だけが異色だった。


「だって、どっちにしろやるしかないんだから」


 ――そうは言ったってさ、当然のように苦悩を引き受けないで。立場ない。



「あそこ、あの菱形のやつに乗って旅してみたいよね」


 ふたりは土曜の朝のホームに立っていた。週明けに完成していなければならない資料が間に合っていない。

 友人が反対のホームにとまった電車の屋根を指さした。空がたかい。電車から見る景色と、あのうえから見る景色は違うのだろうな、と漠然と思う。徹夜した頭の働きは鈍く、雲がかかったように曖昧だった。


「いいね。刺激的。電流びりびりって感じだよね」


「死ぬならやっぱり感電死だよね。最高に気持ちよさそうだし」


 ふたりして目を細めて空を見た。ナチュラルハイで意味不明な会話。それだって心地よく感じられるのは、あっさりと苦悩を引き受けてしまう彼女がいたからだ。

 女だって、微弱な電流を永遠に流されつづけて自分ではもうどうにもできないって思ってしまう犬の気持ちに同情しないわけでもない。

 電車は発った。

 人は疎ら。街全体がウィークデイの倦怠そのままゆっくり東の空にむかって行進しているようだった。マーチングオールナイトパーティ、意味のない言葉が頭に浮かぶと同時に、最後の瞬間が蘇った。最高の青春、最後の青春。

 拍手と歓声。舞台から感じられる観客のしびれた表情。涙。一体感。間違いない。私たちの意図が届いた。心が届いた。表現の喜びがどこにあるかを知った。三年間、無駄にしてきたと思った訓練が、ついに報われたと確信した。


 ――え、優秀校?


 全国大会に出場できるのは最優秀校だけだ。

 女は悔しくて涙した。となりの友人を見ると、くっと固く奥歯を噛んでいるのがわかった。

 三年間ずっと一緒にいて、初めて見せる顔だった。女の涙はその瞬間に止まった。いつか、隣にいる友人が奥歯を噛み締めるのではなく、素直に涙する場所を作りたい。傲慢だ。でも、自分にしかできない、と女は思った。


「幽霊の噂、知ってる? 校門前に出るんだって。卒業しても、しきれない幽霊が。それってうちらじゃね?ってときどき思うんだよね」


 駅員が目深にかぶった帽子をくいと少しあげ、こちらを見、静かに頭をさげた。プォっと警笛が鳴り、轟音とともに風が吹いた。

 朝のにおいにまじって、電車の油のにおい、金属のにおい、ブレーキのにおい、嗅いだことのあるなにかの、遠いにおいがした気がした。


「ね」


 ふたりの平日はまだ終わらない。

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