サボテン

 棘のない緑の肌が汗をかいたようにきらきらと光っていた。

 百円ショップのサボテンは買った時の容器のまま外側に鉢を被せられ、部屋の隅に置かれている。

 ギンテマリという品種の小さなサボテンは、円錐形の中心から鞠のような球体をいくつもつけている。鞠からは、放射状に生える銀色の棘が等間隔に配され、奥の濃い緑を抱き抱えるようにして伸びている。上部には、鞠になりかけのたよりない突起があるだけで、棘も毛のように細い。

 キンセイマルというのもある。ギンテマリとは異なり、棘が金色だ。かぼちゃのような形で、縦方向に谷と尾根のようになった筋が走っている。その尾根に当たる部分に、互いがぶつからない程度に隙間を保ちながら棘が並ぶ。こちらもまた、棘は一箇所から複数、放射状に生えているが、先端は外部に対して敵意を示すかのように攻撃的な向きで立っていた。


「今日もきれいね」


 女は小さな陶器の鉢を手に持ち、窓を背にして仔細に観察する。触れることのできない美しさに憧れ焦がれながら、手のひらにおさまるほどの命を愛おしみながら、静かな声で話しかける。

 触れてみれば当然、つんと棘が痛い。さらに近づこうとすれば怪我をするに違いないが、女はそっと手を離した。

 ぷっくり膨らんだ緑色の肌の下には、砂を撒いたような白い光が見られた。女はそのほんの僅かに見える光の秘密を知りたかった。


「そんな邪険にしなくてもいいじゃない」


 つぶやきは朝のしんとした空気に溶け、窓からさす鋭い日の光に散った。

 女の声を誰も聞いていない。

 それでもつぶやくのは、話しかけると植物はよく育つと聞いたことがあったからだった。要因は呼気によるとも、声の振動によるともいう。女にとって重要なことではなかった。

 部屋には他にもたくさんの植物があったが、話しかけるのは決まってサボテンの二種類で、女は自らの過去をそこに重ねていた。

 攻撃的で周囲に向けて棘を突き出している、弱い植物。異物のように肉体からはみ出した球状の突起を、抱くようにしてひろがる棘。いつくしむことで、女自身が誰かに大切にされているような気がしてくる。

 つまらない妄想だ、と女は思う。なのにずっと、やめられないでいる。


「じゃあ、いってくるね」


 返事はない。静かな部屋にドアの閉まる音が響いた。



 最上階であるせいか、夏は昼のうちに部屋の温度が高くなり、夕方になっても天井から熱が抜けない。女が帰ったのは夜の八時を回っていたが、室内はまだ、真昼の気温とほとんど変わらないようだった。

 フラスコのような形をした銀色の霧吹きがある。エアコンのスイッチを入れてから、部屋の植物に葉水をやった。

 数日前からギンテマリの一部が黄色くなっていた。植え替えるべきか悩むうちにその黄色は範囲を広げ、もはやなすすべがないように思えた。


「なにもできないあたしでごめんね」


『なにもできないんじゃなくて、なにもしないだけだろう』


 隣のキンセイマルの棘が女の指を刺した。

 女はサボテンを愛おしむときと同じように、ゆっくりと指先を持ち上げ、顔の前に持ちあげた。

 丸い血が漏れ、蛍光灯の白い光に照らされている。濃い、黒に近い深みの中から上にむかって鮮烈な赤へとなめらかなグラデーションとなり、ちょうどその頂点が、蛍光灯の光を反射していた。

 こうして傷つけられることで、自分の愛おしむ感情を正当化できた。

 毎朝同じ時間に目を覚まし、同じ時間の電車に乗り、同じ仕事をして、同じ時間に退社して、同じ時間の電車に乗り、部屋に戻る。

 退屈な日々に愛をもちこめば生活もいくらか煌びやかに見える。女はそのために傷を必要としたし、傷は女にとって乗り越えるべき愛の困難で、また、証明でもあるのだ。困難はしばしば、愛を美しく見せるものだ。

 女は指先を唇にあて、血を舐めとった。まだ食事を取っていなかった。


 冷蔵庫から卵を取りだした。表面は陶器の底のようにざらざらしていて冷たい。そこから生物が生まれてくるなど想像しがたかった。

 蛍光灯の光に透かしてみる。振ってみる。耳をあてて音を聞いてみる。無機質な殻の内側には粘度の高い液体を孕んでいた。有精卵であれば、その粘度の高い液体がやがて形を持ち、次第に生き物として必要な器官を備え、新たな命としてやがて内側から殻を破るのだ。

 それは無精卵だった。排泄物にも似ているが、それ以上に生命から遠い冷たさが感じられた。

 殻を割った。半透明の白身がとろんと垂れた。銀色のボールの中央に赤みがかった黄身がとどまっている。血とは似ていない。もう一つの卵を割り入れてから、中央でいがみ合うように並ぶ二つの卵を、菜箸で突き刺した。膜が破れて漏れ出す液体は、かつて命の可能性だ。過去と現在をごちゃ混ぜにしてしまう。攪拌された可能性は単なる一つの黄色い液体として落ち着いた。少しだけ牛乳も混ぜた。

 ベーコンを賽の目状に切り、フライパンに放り込む。油が弾け、豚肉特有のほのかに甘い香りが立ち、たちまち換気扇に吸い込まれる。微塵切りの玉ねぎをレンジで温めてから、同じようにフライパンに入れる。玉ねぎの匂いでいっそうとベーコンの香りが引き立ち、ぱちぱち弾ける音の内側に隠されていた瑞々しい過去があばかれていくような気がしてくる。

 フライパンにご飯を入れ、ケチャップをかける。水分が多少飛ぶまで炒めてから皿に移し、形を整えた。

 一度フライパンを洗い、布巾で拭いてから再び火にかける。表面を指で触れて温度を確かめ、十分に熱くなってからバターを入れた。

 じゅくじゅくと泡立ちながら溶けていく。ケーキ屋の前を通ったときに似た匂いが、キッチンに充満する。全部溶けてから卵を入れてかき混ぜた。固まり切らないうちに、さっきのケチャップご飯のうえに流し入れ、さらにまた上からケチャップをかけた。

 晩御飯が完成した。


 小さな折り畳みテーブルを広げて、オムライスとグラス、サボテンの鉢を二つ並べた。緑、黄色、赤。

 命の鎖とは無関係に生きるサボテンが羨ましくもあり、疎ましくもある。愛おしむが故に、厭わしくもなる。

 少し大きめのスプーンで、オムライスを口に含んだ。バターの香り、ケチャップの酸味、半熟の卵が舌の上でご飯と混ざり、あとから甘みとあぶらが口のなかで広がる。

 可能性を絶たれたことで生まれたこの喜びと、生死の連鎖とは無縁になってしまった二つのサボテンの成す色と質感の対比を余すことなく味わう。美味い。うまい。目に舌に感じられる、リズムやハーモニーがある。

 生きている限りはかならずいつかは死ぬのだ。二つのサボテンは生死の連続から解放されただけで、死そのものから切り離されたわけではない。金属や宝石は美しくても、食事と並べて互いを強め合うようなことはない。そこには有機物にしかない、命のやりとりの不毛さと儚さがあった。


 女は食事を終え、皿を片付けた。

 部屋に戻り、黄色くなったギンテマリの、鞠に触れる。棘にはかすかに弾力がある。自分を守るためだけに、棘を持っている。女はくすりと笑う。キンセイマルだって同じだ。植物は自らの意志で動くことができない。どっちにしろ、女の思うがままの命だった。

 だが、女は自信をサボテンほどの価値もない気がしていた。


 ——それに、枯れたらまた新しいギンテマリを買えばいい。


 窓際に二つのサボテンを戻した。狭苦しいプラスチックの苗床ではなく、本物の鉢を、根を自由に伸ばせる鉢を買わなければならない。外に被せるだけの、見た目だけの偽りの鉢ではなく。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る